2004/08/04

オリーブ畑を走る

 どんよりとした英国の後。
 アルハンブラパレスのテラスから世界遺産アルバイシンの夕暮れを見るという(柄にもなく)お決まりの素晴らしい情緒にひたる。夜は硬いパンを小型の金槌で割りながら、なかなか噛み切れないほど硬い豚肉のソテーと、今までに食べたことがないほど美味しいガスパチョと、同じく今までに食べたことがないほど美味しいトルティージャ・エスパーニャ(スペイン風オムレツ)を食べるという、その後数年間「僕をスペイン料理屋に走らせた」至福の時間を過ごした。

 三脚がなくても、困った僕を見て自動車のボンネットを貸してくれるというか「俺の車のボンネットを使え」と笑顔で強要する人。
 観光地グラナダはスリが多いということを除いて、小ぢんまりとして美しくアラブの香りが残ってとてもいい所だった。大袈裟に言うと少し南下すればアフリカ大陸、海によってアラブも打ち止め。
 次はグラナダ駅からマドリードのアトーチャ駅へ向かう。駅のちかくで水と食パン!とオリーブの実を購入し列車に乗り込む。飛行機では1時間足らずのところを6時間かけて上る。バスが好きな人にはそれでも速すぎるかもしれないけど。
 パンにオリーブオイルをたらし、オリーブの実を多めに挟み、ぽつんぽつんと流れるオリーブの木々を車窓から眺めながら食べる。またそんな優雅な旅をしたいものです。

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2004/07/30

氷河とユーコン川と英国

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 初めてヨーロッパに行ったその年は、仕事のことを考えると散々な年だった。

 ある日の深夜、職場の男子トイレから呻き声が聞こえた。個室の一つを開けると当時同僚だったA君が倒れていた。すぐ救急車を呼んだ。仕事のプレッシャーが凄くて精神的なストレスが原因で体が硬直していた。同じようにして一緒に仕事をしていた人たちのほとんどはリタイアしてしまって、鈍感な僕と天才のBさんだけが残った。
 疲れている自覚はあまりなかったけど、その頃になると仕事の帰り道、運転する車が何回かガードレールに吸い込まれそうになってヒヤッとした。心配になってカウンセリングを受けに行った。頭のほうは正常だったが仕事を1週間くらい休みなさいと言われた。
 僕の抜けた穴埋めに人が一人増員された。彼は親身になってくれていい人だった。彼への仕事の引継ぎを済ませ休みに入った。僕が仕事に復帰するその日の朝、彼が人を殺害したというニュースが目に入った。とてもショックだった。

 この難破船のようなプロジェクトの打ち切りがほぼ決定したことで、僕は旅行に行くことにした。日本に戻ると会社を辞めた。
 その頃はソビエト連邦の都合でシベリア上空を飛べず、ヨーロッパに行くといえば北極圏を突っ切り、アンカレッジを経由し、大西洋を横断するというもので20時間近くを要した。その他には南回り線というのもあった。その後、アンカレッジを経由するような不便なコースは、旅客機の大型化と輸送重量と燃料と世界情勢のバランスで貨物便のみとなった。
 北極圏を突っ切る間-ほとんどの人は寝ていたが、眼下にひろがる氷河が素晴らしかった。ヨーロッパで何をしてたのかあまり記憶に残ってないのに、今でもその風景は鮮明に思い出せる。
 真夏だというのにアンカレッジから見える山々には雪がかかっている。その山々を見ながらマッキンリーで消息を絶った冒険家・植村直己のことを思った。植村が消息を絶って3年くらいの頃だったと思う。どこかのこの山の中で生きているような気がした。
 上空から見るユーコン川はどこから始まってどう広がっているのか分からないくらい、くねくねと枝分かれして不思議な風景だった。子供の頃、父親が製作中のUコン(飛行機のおもちゃ。小さなエンジンでプロペラを回し、羽から伸びたワイヤーとU字型のコントローラを繋いで旋回させて遊ぶ)のエンジンの固定部のバルサを折ってしまったことがある。怒った父は製作途中のUコンをバラバラに壊してしまった。ユーコン川を見たときに、僕は言葉の響きのせいでそのことを思い出していた。今なら野田知佑とかインディアンとかだろう。
 とにかくカナダからアラスカにかかる大自然の魅力は、沢山の人たちを虜にする。月並みだけど、バイダルカを操るジョージ・ダイソンと彼の親で宇宙物理学者のフリーマン・ダイソンのことを取材したケネス・ブラウワーの「宇宙船とカヌー」や星野道夫の本を読んで、今度はアラスカの大地を歩いみたいと考えた。

 英国に着くと、そこは酷いところだった。ホテルのロビーで寛いでいると、一緒のツアーで来ていた男の人が大男の警備員に襟首をつかまれ空中に浮いた。不審者だと思ったらしい。ホテルのレストランで朝食を食べたばかりだった。
 英国から出るときも嫌だった。ヒースロー空港での手荷物検査で、鞄の中のジャムの蓋に反応し金属探知機が吼えた。僕の鞄は逆さにされ鞄の中のパンツを含むあらゆるものがみんなの前にさらされた。検査官は僕の鞄に拳銃かヌンチャクが入っていることを期待していたのか、首を横に振ってとてもがっかりしている様子だった。

(写真はカナダのバンクーバー島と本土を繋ぐフェリーからの写真、本文とは関係ないですね)

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2004/07/17

熱にうなされながらフィッシュヘッドカレー

 40度近い熱を出し寝汗をかきながら、僕は外国で食事をしている夢を見ました。場所はシンガポールのリトルインディア。シンガポールと言えばその小ぎれいなイメージからガーデンシティなどと呼ばれて、シンガポールへ行った友達の中には期待を裏切られたかのように「きれいすぎてアジアじゃないみたい」なんて言う人もいます。

 たしかにオーチャードロード周辺はそのとおりかもしれません。ゴミ、タバコのポイ捨て、地下鉄の中での飲食がだめなんていうのは有名ですが、ガムもこの国では御法度(持ち込みも)。だからオーチャードロードは北京の天安門前のようにガムが地面を埋めているようなことはありません。それどころかゴミひとつ落ちてません。ポイ捨てをして捕まったら、しばらく公園の清掃とかやらされるとか。

 本題に戻って夢の中で何を食べてたかというと、フィッシュヘッドカレーを食べてました。東南アジア最大のインド人街、リトルインディアにある人気カレー店「バナナ・リーフ・アポロ」です。
 フィッシュヘッドカレーの歴史は浅く、インドからシンガポールへやってきたインド人(当たり前か)シェフが考案したもので、つまりはシンガポールオリジナル料理です。見た目は大きな魚の頭がどーんとカレーの真ん中に鎮座していて少々グロテスクですが、鮮烈な刺激のカレーと魚がとても相性よく大変美味です。このカレーを食べたいがためだけにシンガポールへ行く人もいるようです(大げさに言ってるわけじゃないですよ)。

 初めてリトルインディアに行ったときはこのエリアのインドぶりに胸がわくわくしました。たしかにインド本国の混沌とした感じに比べれば整然とした街ですが、北インドオンリーのインド好きはともかく、インド好きの人にとってはインドの次にインドなところらしいです。とにかく市場やお店の中に突入すること。外と中はえらく違います。だから深夜特急でのシンガポールの評価はとりあえず忘れることです(誰に行ってるのやら)。

 それで僕は現実はどこでフィッシュヘッドカレーを食べたかというと、同じくリトルインディアにある「ムトゥス・カリー」です。シンガポールで1,2を争うカレーの店との評判なんですが、その1,2を争うもうひとつの店が「バナナ・リーフ・アポロ」なわけで、どうもそちらの方が美味しいとの意見が多く、このカレーを食べたいがためだけにシンガポールへ行きたいひとりである僕は夢に見てしまったようです。おかげで寝汗も倍増です。

 実際にこのカレー屋さんに行ったときのことですが、僕は出てきたカレーをスプーンで食べましたが、インド系のお客さんは手で、なんと中国系のお客さんは箸でカレーを食べてました。日本人である僕がこんな場所で西洋の食器を使っていることに少し恥ずかしさを感じました。次に行ったときは箸はさておき、せめて手で食べてみたいと思います。

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2004/05/25

マドリードの肉屋にて

 スペインのフェリペ皇太子夫妻がロイヤルウェディングに引き続き宝くじに当たった、ということでスペインの旅を思い出した。随分昔のことだけど。

 マドリードのアルカラ通りの近くを歩いていると少し横に入る路地の角に肉屋があった。僕の家の近所にでもありそうな小ぢんまりとした角の肉屋。路地に面した2面は全てドアが無く開放され、店の中にでかい生ハムの塊が沢山ぶら下がっているのが見える。絵で書いたようにランニング姿の太った親父が椅子に座って煙草をのんでいる。(今でもそんな肉屋あるのかなあ)
 そういえば朝はハンマーで割らないと食べられないような硬いパンを少し食べただけ、気温も高くしかもずっと歩きぱなしでお腹が空いてきた。ということで生ハムを食べながらブラブラとしようと決めた。

 「オラ!」と言って店の中に入る、店の親父が「オラ!」と答える。そして僕と目があうなり『待った』と目で制止して店の中に向かって誰かを呼ぶ。すると店の中から僕とあまり年が変わらないだろう若い女の人が出来てきた。娘さんらしい。親父は店の奥へ引っ込んだ。この親父、スペイン語以外話せないんだろう。それで英語が話せる彼女にバトンタッチしたと僕は考えた。
 あては外れた、彼女は英語がほとんど分からない。でも僕もそうとう英語が出来ないので、対等ということでなんか気が楽になった。香港でやってたように身振り手振りでやればいい。
 そこで美味そうな生ハムを指してスライスする真似をする。彼女は一枚小さくスライスして僕に渡した。それを口に入れろとジェスチャーで示す、試食である。普通の安いハモンセラノだろうけど、日本のイタリア料理屋なんかで出てくる熟成の止まったやつの何倍も美味しい。ということで『美味しい』とサインを出すと、あとは僕のスライスするジェスチャーに合わせ何枚かスライスして紙に包んでくれた。1枚、2枚とやるたびにお互い笑ってしまって楽しい一時だった。

 さて店でお勘定を済ませると、何か背中を硬いものが当たる感じがする。後ろを振り向くと腰の曲がった老婆がいた。なぜか分からないが手に持っていた傘の先で僕を突いている。そして僕の顔を覗き込み「ハポネ、ハポネ」と何回も言っている。
 僕が馬鹿の一つ覚えで「シ、シ、ハポネ」と言っても、老婆は相変わらず傘で僕を突きながら「ハポネ、ハポネ」とやっている。やっているどころかどんどん「ハポネ」の声が大きくなっていくではないか。僕は瞬時にして、子供の頃に見たあるアニメのシーンを思い出した。それがキックの鬼なのかタイガーマスクなのか別のなんなのか、とにかく主人公がリングサイドで傘で刺されたシーン。あの時刺されたのは彼が日本人だったからでは?もしかするとこの老婆も何か日本人に恨みでもあるのだろうか?

 そうこうしているうちに店の周りには、その様子を面白がってか1人2人と見物客が集まってきた。やがて10人20人となって通りの景色が見えないくらいに集まってきた。たぶん30人位は集まってきたと思う。僕たちの様子を見てもりあがっている。そして誰かが老婆の真似をして「ハポネ」と言い出すと、それが伝染し、みんな口々に「ハポネ」と言い出し「ハポネ」の合唱が始まった。やがて「ハポネ」はちょっとした大合唱になった。とうの老婆はなにかスペイン語を発し笑って消えた。
 怖い恥ずかしいで、僕は買った生ハムを持ちながら彼らをかき分け、彼らに「ハポネ、ハポネ」と肩を叩かれながら、店の外に出た。振り返るとみんな「ハポネ」と叫びながら僕に向かってなぜか手を振っていた。僕も一応手を振った。いったい何だったんだろう?未だに訳がわからない。スペイン語話せればなあと思う。僕は生ハムをかじりながらこの現場から離れようとたぶんシベレス広場のほうに向かった。

 これでスペイン語勉強しなくちゃって思ったんだけど、まったく身に付かずに挫折。いつも簡単な英単語をつなげるだけで乗り切ってたけど、やっぱり語学力は大事。

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2004/05/20

バックパッカー シミュレーション

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 前回、所持金のことを書いてしまったせいか、自分の旅行スタイルについて考えてしまった。自分たちで航空券や宿を手配して旅行に行っても、なんというかパック旅行に準じたような安全な旅をしているだけではないかと思う。その中で少しだけ冒険をするっていう感じで、常に安全圏に戻れるような保険をかけたスタイル。だから旅の内容を書いていても、そこに生活している日本人やバックパッカーの人たちのような大層なことは書けない。ちょっとかじったことやほんの少しの経験を(卑屈な感じでの)大層に書く。

 思い返してみれば、大事な20代に大胆な旅行をしなかったのが大きいのかもしれない。一度就職してしまうと旅行のために会社を辞めるなんて考えられなかったように思う。一度辞めて旅行に行って再就職するなんて凄く難しいことのように思えた。だから会社に文句を言われない程度のミニ旅行を繰り返す。
 前にも書いた沢木耕太郎の「深夜特急」(古いね)のおまけ対談で「日本にはドロップアウトしたあとにドロップインする回路が無い」と言ってるように、何かドロップアウトすることに恐怖に感じていた。しかも実際、ドロップイン出来ずに日本では肩身の狭い仕事にしかつけない人も知っている。最近はもう少し状況はいい感じもするけど。誰かの受け売りではないけど、若い時にはバックパックを担いで「お金ない。5ドルにまけて」なんて言ってほっつき歩き、社会に復帰したらお金をばらまくヤッピーになてるっていう発想が僕の20代には無かった気がする。というかそんなことしようというパワーは無かった。
 結局そういうことが出来なかった(今からは無理でしょ)ため、僕はバックパッカーをシミュレートするためにバックパッカーな本を時々読んで満足する。で旅行はいつものミニ旅行。(なんでこんなこと書いてんだろう。台風が来てるからかな。)

 ちなみに写真はバリ島のサヌールの土産屋から撮ったものです。寂しいのでつけておきました。

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2004/05/19

旅先でいくらお金を使っているか

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 (今日はなぜか急いでいるので)どうでもいい話だけど海外に旅行に行った時、航空運賃や宿泊費を除いてどのくらい使っているのか考えてみた。
 思い出してみると僕はいつも旅行には現金3万円(一応使わないけどクレジットカードも)を持って行く。そして帰りはいつも1万円~2万円位余る。そういえば香港5日間でもバリ島7日間でもサイパン4日間でもバンコク5日間でもシンガポール5日間でもヨーロッパ10日間でもその他もろもろの旅行も含めほぼ同じだった。金額が高いか低いかは別として、自分でもどう調整しているのか分からないけど、いつも結果は同じ。あまり物価も日数も関係ないみたい。今度の旅行で謎を解いてみようと思う。

 ちなみに写真はバリ島の市場で撮ったものです。寂しいのでつけておきました。

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2004/05/07

クオーター・パウンダー

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 本当はハワイアンのCDの事でも書こうと思ったのですが、今日はクオーター・パウンダーを腹いっぱい食べたい気分だったので変更です。

 海外に行くと、必ず現地のマクドナルドに行くなんて人も多いと思います。僕も以前はそうでした。観光地といっても都市部に泊まることが多かったので、大概マクドナルドが近くにあったものです。最近は、マクドナルドなんて近くに無いようなところに泊まることが多くなったのでご無沙汰してます。
 僕の場合は、世界の珍しいご当地ハンバーガーを食べるという目的ではマクドナルドには行きません。必ずメニューでクオーター・パウンダーを探します。理由は大好きだからです。クオーター・パウンダーとは名前の通り1/4ポンドのミートが挟まったボリュームのあるハンバーガーで、値段のほうもビッグ・マックより高いハンバーガーです。日本にマクドナルドが上陸した数年間は日本のマクドナルドのメニューにもありました。当時マクドナルドに勤めてた知人は「クオーター・パウンダーはコストが高くて、クオーター・パウンダーの注文が沢山入ると店長が困惑する」と言ってました(本当かどうか分かりませんが当時は牛肉高かったのでしょうか)。
 数年前、我が家の近くのマクドナルドでクオーター・パウンダーが一時復活した時があったんですが、この時のミートと言ったら僕の知ってるクオーター・パウンダーのミートとは全然違って平べったくて大きい歯ごたえとジューシーさに欠けるものでした。僕が以前美味いと思っていたのは、厚みがあってジューシーでバンズが霞んでしまいそうなものだったのです。
 そして最近、妻がオーストラリアに行った時にクオーター・パウンダー(チーズ無しのクオーター・パウンダーは今は無くて、クォーターパウンダー・ウィズ・チーズもしくはダブルクォーターパウンダー・ウィズ・チーズらしい)を食べたらしく、大変美味しかったという話を聞いて羨ましく思いました。ということで今の気分です。

 キングの小説のようにロックンロールを鳴らしクオーター・パウンダーを食べながらハイウェイをとばすというのが、未だに僕のアメリカ人のイメージです(スーパーステレオです)。
 そして思い出します。マドリッドの世界一豪華なマクドナルド(宝石店改装)、マニュアルどおり英語で応対してたパリのマクドナルド、香港の約100円のまずいビック・マック・セット(まだ品質は統一されてなかったんですね)。

(またつまらないことを書いてしまった)

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2004/04/30

モナリザ、パリ

 「モナ・リザの保存状態を調査へ ルーブル美術館」→CNNというニュース。名画ということで、やはり修復すべきか否か議論になっているらしい。美術のことには疎いけど気になるのは「モナ・リザ専用の展示室を建築中」というところ。

 フランスはパリに行ったのはたった一回、しかも16年くらい前、そのときはもう一度行きたいというほどの印象は無かった(嫌いではないのですが)。フランス革命200年祭の前年で、祭にあわせて色んなものが修理中だったから、そんな印象で終わってしまったのかもしれない。カラックスの「ポンヌフの恋人」でパンパンと花火が上がった、その前の年。
 一応、かの凱旋門を見てみようとそっちの方に行ってみると、なぜか凱旋門が見当たらない。仕方なく近くにいた露店のアイスクリーム屋さん(たぶん学生のバイト)に「凱旋門は何処?」と聞いてみる。すると彼は笑いながら「そこですよ」と凱旋門の場所を指で指す。恥ずかしいことに凱旋門は目の前にあった、全体をフランス国旗に覆われて!!
 その他にパリで記憶に残っているのは、犬の糞をよけながら歩いたり、35度近い気温の中バスのエアコンがきかなくて気分が悪くなったり、ホテルの水道の蛇口で指を切ったり、スーツケースの鍵をホテルに忘れてしまいホテルに連絡すると、フランス語しか喋れないベットメイキングのおばちゃんに電話を代えらたり、したこと。半分以上、僕が悪いんだけど。

 僕がパリで一番感激したのは、パリ初めてのおのぼりさんらしく「モナリザ」だった。その頃のルーブル美術館は、今のようにミッテランのグラン・プロジェの産物「ガラスのピラミッド」のエントランスはなく、古くて暗い無意味に広いエントランスだった。そのエントランスの大きさに反比例するように小さいチケット売り場で「アン・チケ・シルブプレ」なんて言って入場券を購入。ミロのヴィーナスなどを眺めながら階段を登り、多くの名画に挟まれたその長い回廊の正面に「モナリザ」があった。
 実はそれまで「モナリザ」にはなんの興味もなかったけど、思っていたよりずっと小さい、その本物を見て一発で魅了されてしまった。美術の教科書にある絵を見ても、なんでこれが超名画なのか分からなかった。でもすごいオーラなんですよ本物は。だからもしも、またルーブルに行ったらその回廊の先には「モナリザ」が無いということなんだなあと、このニュースを見て感慨深くなった。

 余談だけど、グラン・プロジェといえばジャン・ヌーベル設計の「アラブ世界研究所」→外は見たかった。あのカメラの絞りみたいな窓?、あれは格好いい。コルーシュ主演の映画「チャオ・パンタン」が好きだったから、そのせいかパリと言ったらアラブのイメージがつきまとう。ベトナム料理が美味いという評判だからパリに行ったら食べたいな。それと路地裏の小さなカフェで食べた定食、これは美味しかった。そういえばタヒチってフランス領だっけ。タヒチで食べた魚のスープはめちゃくちゃ美味しかった。

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2004/04/06

香港新発見?シンフォニー・オブ・ライツ?

 テレビで「香港新発見」→テレビ東京という5分程度の短い番組が始まった。一回目は「香港夜景」と題して夜景に限らず香港のハーバービューを紹介していた。今後も「香港カルチャー」や「香港の離島」などというテーマで毎週放送されるらしい。

 僕は香港には2回しか行ってない香港ビギナーだが、1回目と2回目は10年くらいの間隔があってその香港の変化には驚いた。初めて行った時はまだ民族衣装を着て笠をかぶっているご年配の方を沢山見かけたし、沢山の屋台を見かけた。高いビル群は今も昔も一緒だがそれでも今ほどではなかったように記憶している。
 そして2回目はもう少し面白みに欠けていたように思う。僕は香港に対して幾分無節操な都市のイメージを持っているが、中国に返還され落ち着くかと思いきやそれはさらに増しているような気がする。予想以上にそのスピードは早くて以前は探さなくても見れた面白いものも、2回目は探さないと見つからないことが多かった。香港島も肉入り月餅を食べながら歩くという雰囲気でもなさそうだ。

 「香港新発見」で今回紹介された中にシンフォニー・オブ・ライツというのがあった。これは夜になると沢山のビルの屋上からレーザーを出したり電飾ピカピカしたりするという、100万ドルの夜景が10倍くらいパワーアップする見世物。レーザーというと田舎に住む僕のイメージではパチンコ屋の屋上から下品に出ているやつで、香港くらいもの凄いと華やかでいいのかもしれないがやはりパチンコ屋のイメージが浮かんでしまう。

 初めて香港に行った時のこと、香港島のビクトリアピークから夜景を眺めていると、ガイドさんが観光客たちに質問した。(当時香港に行った人は体験しているでしょう)
「香港の夜景を見て何か気がつきませんか?」
僕が「点滅してないですね」というと、
「当たりです。何故かというと、空港が街の中にあって飛行機の着陸の邪魔になるからです。香港には沢山のビルや看板があっても一つも点滅してないんです。だから香港の夜景は綺麗なんです。」という答え。
 その頃の空港というのは日本軍の置き土産をもとに作った啓徳(カイタック)空港。街中にあるその空港は離発着時にビルのすぐ上を飛ぶので、悪名高き九龍城砦とならんで今はもう無い香港の名物のひとつだった。現在は新しい香港國際空港(チェクラップコック国際空港)がランタオ島に作られそちらに機能が移ってしまったのでガイドさんが話してくれたような制約が無くなったのだろうか。 そんな事を思い出しながら僕は、テレビ画面から流れるシンフォニー・オブ・ライツの光景を見てその華やかさとはうらはらに何故か寂しい思いがしたのだった。

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2004/04/01

香港、信和中心は怖い

 過去、海外旅行に行って何が一番怖かったか想像してみる。幸運なことにあまり怖い目にあっていないらしい。スリにやられそうになったり、ぼったくりタクシーにのってしまった程度。ウェブを見ていると色んな冒険談が書かれているが、偶然に大したことは経験してない。残念なことに病気にもなっていない。

 ということでショボイ海外トラブル経験の中で何が怖かったかと思い出す。危険度は小なんだけど香港の信和中心(旺角にある)というテナント集合ビルは怖かった。このビルはオタクビルとして有名で一階こそは普通のテナントばかりだが、上へあがるにつれ違法CD-ROMを売る店やアイドル生写真を売る店、マンガ屋、キャラクターグッズを売る店などが増えてきて狭いビル内をひしめきあっている。

 このような場所に足を踏み入れること自体が僕からすれば少し緊張してしまうのだが、その日は頑張って入ってみる。警察も時々踏み込んでいるような場所だが、あきらかに違法ものを売ってる店も店員は大変明るく親切。緊張も解れてきたところで、ここでこっそり写真をとってみようと考える。そしてアイドル生写真屋の前で1枚(僕の趣味ではないですよ)。まあこっそり誰にも気がつかれないように撮ったつもりだったのだけど持っていたカメラが父親から借りたNikonのF4という割と大きいカメラ、やはり見つかってしまう。店員が騒ぎ出し、僕はビルの警備員に引き渡されてしまった。そこで相手は広東語で「写真を撮っただろう、フィルムを出せ!(多分こんなことを言っていた)」、僕は日本語で「撮ってない、撮ってない(本当は撮ってるわけですが)」と押し問答。次第に冷や汗たらたら。結局、広東語と日本語で折り合いがつくわけもなく、営業内容が内容で相手も警察を呼ぶわけにもいかず30分程度で解放された。信和中心は怖かった。

 この日以来、僕は写真はジェントルに撮ることを心がけている。(信和中心ってまだあるのかなあ)

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