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2004/03/30

スッペタでサヤン

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ウブド、リゾートの朝を思い出す→本サイト内の続き)

 このままスッペタ(自転車)で集落の中に入り込みたい気持ちもあったが、地理的にもなれていないこともあり集落には入らず、予定通りアユン川に並行する大きな道に出る。予想はしていたがいきなりのその交通量に圧倒された。もちろん交通量だけでなく東南アジア特有の運転の荒さの中で走らせることは可能なのか不安になる。舗装されているものの道は両側に極端に落ち込んでいるし陥没も多い。僕たちの横をギリギリにかするように車や3人、4人、5人乗りのオートバイが抜いて行く。このあたりは地域的にはウブドなのだが日本のペラペラガイドブックにはほとんど情報が無い。しかも時期も時期、スッペタなんかに乗っている観光客は皆無、乗っているだけで周りから強い視線を感じる。地図でみればただの直線の下り坂だが、走っている限り前方の視界にはいつになっても何も目標が現れず距離感がつかめない。
 しばらく走らせると両岸に美しい田園風景が広がってきた。道端に少し広いエリアが出てきたのでペダルを漕ぐのをやめ、しばらくその風景を眺めながら休むことにした。視界いっぱいの広大な田園で大勢の人たちが農作業をしている、今は稲刈りの時期らしい。女性たちのあるグループは穂を引き抜き(稲刈り?)それらをまとめ天火に干す。またあるグループは乾燥した穂を何かに打ちうけている(脱穀?)、しかも凄い勢いで。男たちは選別された籾を袋につめトラックにリレー式に積み込む。なかなか手際が良くどんどん袋が積みあがっていく。他の田んぼで見たのだが、このあと残った藁は集めて燃やすに違いない。人力のみ(正確には牛、家鴨、ガチョウなどの協力有り)での作業は普段日本で見慣れた機械式農作業とは違い感動的だ。
 そんな光景を写真に収めていると一人の女性が近づいてきた。僕の前に立ち、
「1000ルピア」と手を出してきた。
たぶん僕が写真を撮っているのにかこつけてお金を貰おうという考えだろう。
「だめだめ」
と僕が言うと彼女はなあんだという感じで農作業に戻っていった。戻った後は僕のことなど気にもとめず農作業を続ける。

しばし通り過ぎる車に恐怖しながらスッペタを漕ぐ。(長い田園風景や住宅が続く)

 しばらくすると土産屋などが現れ始めサヤン村の中心に来たようだ。なかなか着かないような気がしていたので少し安心する。そろそろ戻ろうと考えているとアマンダリが現れた。僕たちは戻らずにそちらへ方へ向かうことにした。有名な「おじさんのホテル(とバリ人が言っていた)」を一度見ておきたくなったのである。
 ホテルの入り口の警備員に
「アユン川はどう行けばいいか(忘れていた、これが本来の目的)」と聞くと、
「ホテルの敷地を抜けてアユン川へ行っていい」と言われた。
 僕たちはスッペタを駐車場にとめ、ホテルの敷地へ入っていった。

 ホテル内に入ると双子のフロントマンが現れ要件を聞いてきた。二人は見分けがつかないもどそっくりだ。彼らに教えられたように敷地内を通りアユン川へ向かった。アユン川への道はかなり急な坂道でアマンダリのメインプールを見ながら一度躊躇する。かなり暑い。意を決して坂道を下りきるとそこには大きなアユン川がゆっくりと大量の水を運んでいた。
 何十年も前、このバリに惹かれ訪れた芸術家たちはこの川を前にサロンを開き思い思いに過ごしていた、それが想像できるようなそんな幻想的な風景である。
 川では何人かのバリ人がマンディをしていた。めったに宿泊客もここまで来ないのか珍しそうに僕たちをみている。失礼なのでそちらはあまり見ないようにしてしばし川の流れをながめ無心に浸る。そしてはずんだ息が整ったところで戻ることに。
 やはり帰りの坂道はかなり身体に堪えた。その僕たちの横を子供たちが走るようにすれ違って行った。マンディをするためだ。元気がいい。挨拶を交わす。
 もう死ぬかと思ったころやっと登りきりホテルの敷地に戻った。ホテルでは先ほどの双子が分厚いおしぼりを用意してくれていた。部外者である僕たちになんというサービス、アマンダリ。そしてバーに入ると喉が渇いたのでバーでシュウェップス(ビター&レモン、美味い)を注文した。喉が潤うと元気が出てきた。バーの人間と短い会話を楽しみすっかり体調も整ったのでスッペタにまたがり走り出した。おかげで帰りの道のりは軽かった。通り過ぎる風景も行きに比べ余裕がある分良く見える。大勢を荷台にのせたトラックが来た。通り過ぎるトラックの荷台に乗った子供が僕たちに向かって大きく手を振って「ハロー」と叫んでいた。

 ホテルに戻ると部屋でごろごろ、プールでちゃぷちゃぷしながら次は何をしようか考える。その時間が有意義に感じる。
 僕たちは普段から自動車による点から点への移動による観光に慣れている。スッペタで散策すると移動の速度も落ち連続した線による移動になる。少し視界も広がる。思いついた場所ですぐ停められる。さらに時間と体力があれば歩いみるのがいい。欲張って沢山の観光地を周らずにゆっくりとひとつの場所を散策する日をつくってみることも大事だと思う。必ず移動の速度とは反比例した収穫がある。なんのことは無い時間だったが楽しかった。今度はスッペタで別の場所へ行ってみよう。

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2004/03/29

ウブド、リゾートの朝を思い出す

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 時々テーマの無い紀行文を書いてみようと思う。(といことで前回のバリ島旅行の覚書から)

 バリ島旅行の初日、この日もそうだがウブドでの朝は気持ちが少し緊張していていつものように早起きだった。夜中のチェックインだったためリゾートの全貌が分からない。このホテル自体があまり大きくないことは知っていたので冒険がすぐ終わることは分かっていたが、カメラを片手に敷地内を散策することにした。
 その日の朝も渓谷のほうから顔を出す朝日とともに現れる素晴らしい景色を臨むことが出来た。いったん日が昇り始めると急激に気温が上昇し、あっという間に汗ばむ感じとなった。この朝の空気を全身に浴びるとバリ島に来たことを実感する。
 パブリックスペースへ出てせまい敷地ながら入り組んだ細い道を歩く。僕たちが泊まっているビラと同じようなビラがチャンプアン渓谷に向かうように整然と並んでいる。鶏の鳴声を別にすれば誰もいないのではないかと錯覚するほど静かな朝だ。だが渓谷を挟んだ反対側の斜面ではすでに農作業をしている光景が目に入る。彼らは僕たち以上に早起きなのだ。敷地内のいたるところに南国の植物が植えられ甘い香りがほのかに漂い、蝶や蜂がそれらの花に群れている。ホテルは自然と一体となっているようだ。バリ島のリゾートは植物による演出がとてもうまいと感心する。
 やがてまだセッティングのされていない小さめのL字型の外側が大きくアールしたメインプールにたどりつくとそこは太陽の上昇に誘われるように大量の湯気を発していた。プールは渓谷へ流れ落ちるようにせり出しその向こうには椰子や大型のシダ類などの熱帯林や棚田が広がっていた。

 朝食をとりにレストランに行くと朝も早くて客がいないと思っていたレストランで話し声がする。周りを見回すと、西洋人たちとホテルのスタッフが打ち合わせをしている。ホテル側は西洋人たちにこのホテルを売り込んでいるようだ。テロの後でセキュリティに敏感な日本人ツーリストが激減し日本人宿泊率が高いオープン間もないこのホテルはいきなりの窮地だろう。売り込みに必至の様子だ。この日も宿泊客は三組しかいない。(サリ・クラブ爆破テロ→本サイト内参照)
 朝食をとりながら今日はレンタルバイクでこの周辺を散策しようと決定する。この朝の感じを壊さないで1日を終えようという考え。ウブドは起伏が激しくレンタルバイクは要注意との情報もあったが、以前タヒチのボラボラ島で行ったレンタルバイクが非常に満足できるものだったのが決定を後押しした。しかし無理をせずに街の中心に下るコースは回避しアユン川沿いの道を行ける所(たぶんサヤン村の中心部あたり)まで行ってまた戻ってくるという単純なコースに設定した。

(バリ島で聞く単語は楽しいものが多いと思う。バリ島ではバイク=自転車のことをスッペタというらしい。バイクより愛嬌があるので気に入ってそれ以降バイクはスッペタとなった。バリ人の前でバイクを漕ぐまねをして「スッペタ、スッペタ」とやると案の定大受けだった。だからバイクはスッペタに統一しよう。)

 レセプションに行くと明らかにカップルな男性2人がインダスというレストランの場所を確認していた。サングラスの奥から視線を感じ少しうろたえたが、彼らがいなくなるとレセプションでスッペタを借りる旨を告げた。駐車場で暇を持て余していた男性が2台のスッペタを持ってきた。僕たちはスッペタを受け取ると空気圧やブレーキの効き具合、サドルの高さをチェックし、久々の乗り味を駐車場内で試し、たぶん安全だろうことを確認すると期待半分不安半分の状態で試し乗りそのままホテルを出た。今回の旅行もなかなかの滑り出し。

 ホテルを出るとそこはすぐ小さな集落になっている。そしてどこから出てきたのか子供たちが大勢飛び出してきた。僕たちが日本人であることにはお構いなく「ハロー、ハロー」と声をかけながら集団で追いかけてくる。僕たちが子供の頃、外国人を見つけるとやっていたことと同じだろう、その頃は何処の国の人間であろうがアメリカ人だった。だから誰かまわず「ハロー」と言って追いかける。ここの子供たちも外国人をみるとすぐ屈託なく近寄ってくる。さすがにこの奥まった集落は観光とは縁の無さそうな、しいていえば写真家が好んで足をのばしそうな場所なのでどう振舞っていいか考える。生活のエリアに足を踏み込んだ感じなのである。観光地でも車道からひとつ奥に入り込むと多少なりともこの雰囲気は味わえるが、ここは本当にバリ島の集落らしい雰囲気に溢れている。ホテルが出来たことによってツーリストに対するこのヤンバル(もちろんツーリストに対してのみ)もまた奥へ後退するのだろう。本当はここで彼らを入れて写真でも撮ればバリ島の写真集にあるような絵が撮れたのだろうが、僕は迫り来る子供たちに圧倒され、狭く凸凹の激しいこの村道でスッペタを倒さないようにコントロールすることで精一杯だった。

 (もうちょっと長くなりそうです、続きは「スッペタでサヤン(仮)」という記事で。)

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日刊ココログガイド掲載と沖縄物産展

 「ココログご紹介のお知らせ」というタイトルでココログ事務局殿よりメールが届いていました。見てみると「日刊ココログガイド」→ココログナビに載せていただいてました。普段からこのサイトに関してなんの啓蒙活動もしていない僕にすれば大変ありがたいことです。それにしても前回の記事が「英国人作家のデリー紀行」では楽しくなくて来てくれた人もがっかりですね。

 ついでですが、先日近所のデパートで沖縄物産展がやっていたのでつい行ってしまいました。沖縄の打楽器「パーランクー」と食べ物では「島ドーフ」と「ウミズタ(ウミブドウ)」を買いました。帰りはブルーシールのアイスを食べました。島ドーフのほうは今日が賞味期限なのでなんとかしなくてはゴーヤーとか豚肉があればなあ。ウミズタのほうは常温でもう少し保存できるらしいです。
 それにしても沖縄の人たちみんな明るくて沖縄にいった気分でした。9ヶ月になる息子はさっそくパーランクーを鳴らして遊んでいます。

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2004/03/25

英国人作家のデリー紀行

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 先日、ウィリアム・ダルリンプル著「精霊の街デリー―北インド十二か月(凱風社)」→amazon.co.jpという本を読み終わった。この本は1993年に英国で出版され日本では1996年に翻訳出版された。11年前の本だからまったくタイムリーではない。

 大英帝国時代、英国人作家は植民地政策推進の産物として魅力無い国内から国外にテーマを求め多くのトラベローグを残した。ミステリーのような娯楽作品ですら、たとえばクリスティーの「ナイルに死す」のように植民地を舞台にしたものが流行った。同じ島国でかつ植民地政策に走った日本ではあるがそのような文学は極端に少ない。今では日本人も海外に多く出かけるようになったが英国の域には達していないようだし、そのような文学を求める声も少ない。対して現代英国では一時面白い作家を失った時期もあったようだが70年代後半から90年代を通して盛り返し面白い紀行文学を書く作家が増えていた。(この傾向は米国にも多少飛び火していた)
 残念なことにそれらの作家の作品を読もうと思うと日本語に翻訳されたものはかなり限定され(小さな出版社の努力によるものが多い)僕のように田舎に住んでいると探すのも一苦労だ。ネット上でそんな本が出版されていたのかと気が付いて、既に絶版もしくは限りなく絶版に近い品切れになっていることが多くがっかりする。
 ここで取り上げるダルリンプルも故チャトウィンやオハンロンなどには及ばないものの?英国では人気のある紀行作家である。僕にとっては翻訳されているだけでも嬉しいかぎり。当然ベストセラー作品だが、読んでみると何故これがベストセラーなのか疑問に思う人もいるだろう。しかし読んで得る情報は日本の平たい文章による新書などを読むよりはるかに刺激的に脳に入る。ある英国人が「英国人は知識的な刺激のある本が好き」とは言いさらに「日本人の読書は読書といえるのかと」と言ったのは言い過ぎかもしれないが。

 この本はデリーでの1年間に及ぶ生活体験(とはいっても取材に4年を要しているらしいが)を9月から8月までの時系列に並べ書かれている。
 ここでは本の内容について詳しく書くつもりはないが文章は英国人特有のユーモアのオンパレードである。かといってオハンロンほどやりすぎではない。むしろ真面目にユーモアを効かせてしまうところが(支配されていた側のインドには不本意だろうが)大英帝国時代の作品のようだ。読み進めば進むほど過去へ遡るような感じで彼は考古学趣味ジャーナリストそのものである。ところでユーモアとい点に関して僕は米英の紀行文学で注文したい点がある。現地人の英会話の可笑しさをユーモアとして盛り込むことだ。時々は良いとしてもあまりやると相手を見下しているようだ、たとえ相手の英語が変でも文章化する際はまともな言葉にしてほしい。
 実はこの本を読むまでインドのこと(特にデリーのこと)をあまり理解していなかったらしい。インドに関する沢山の情報は耳に入っていたはずだが役に立っていなかったようだ。作者はニューデリーのシーク教徒のアパートに住みそこを拠点に取材を行っている。この本ではニューデリーとオールドデリーの違いについて、パキスタン分裂とその後について、インディラ・ガンディー暗殺後のシーク教徒虐殺について(これは本当に痛ましい事件)、ムガール文化の没落について、スーフィズム(イスラム神秘主義)について、なんとヒジュラ(日本では両性具有とか変な認識があるけど)について、マハーバーラタについて、そして植民地時代の英国人の阿呆ぶりについて面白く上手にまとめ上げている。ヒンドゥー教徒、シーク教徒、イスラム教徒が同じ場所で生活しその微妙な関係から、現在中東から伝わってくる情報では分からなかったイスラム教の一面も浮き彫りになっている。中東ではコーランに厳格なイスラム原理主義の台頭によって活動が難しくなっているスーフィズムもデリーでは生きている。神秘的なものが純粋主義に駆逐されるところはキリスト教も同じかもしれない。デリーから見て西また西で世界の注目を浴びている事象を考えてみるのもいいだろう。

 余談だが前回のサイパン旅行の最終日、僕たちは雨の中博物館へ向かった。その時のタクシーの運転手はデリー出身のインド人だった。出稼ぎといえばフィリピン人を思い出すがインド人もなかなか多い。この本を読んだ後だったらもう少し彼の故郷について、また何故サイパンで仕事をしてるのかなど少し踏み込んだ会話が出来たのにと思う。彼はデリーの中でもニューデリー出身だったしそういえば髭は生やしてなかった。この本では作者のお抱え運転手はパンジャブのタクシー運転手だ。シーク教徒の彼は髭を生やしていたが。

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2004/03/22

マイフォトを使ってみる

 短い記事が連続。

 マイフォトを使ってみる。実は一度「これまでの写真の解説」などという記事に載せてしまったのだけど、どうも僕にはあっていないようでマイフォトに移動。それにレイアウトも色々落ち着かなく変更。あらためてデザインの才能はまったくないと自分のことを思う。
(ということで「これまでの写真の解説」は削除しました)

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インドネシア語講座に行く

 先日、ご近所のバリ雑貨屋さんに家族でインドネシア語講座に行ってきた。実際には雑貨屋さんではなくそこの旦那さんが教えている。彼はボルネオ島の離島で3年、バリ島のサヌールで1年、スキューバダイビングの仕事をしていた。それでインドネシア語を覚えたとのこと。(間違っていたらごめんなさい)
 1回1時間の全4回なので英会話教室のようなペラペラになってやるといった気合の入ったものではないが、講師の明るさも手伝って和気あいあいとした楽しいひとときだった。バリ島でのこぼれ話なども交えながら第1回ということで「インドネシア語の基礎」「挨拶」「数の数え方」などを習った。内容の半分くらいはバリ島でも使っていた内容だったが、あやふやだったイントネーションの確認などやはり個人では勉強できないこともあった。
 なんといっても一番の効果は全員バリ島に行きたくなってしまったこと。次の授業が楽しみになってきた。

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2004/03/18

ホノルルでMarie's Weddingを唄う

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 ハワイに行った頃、僕はハワイアンと言いたいところだが理由もあってケルト音楽に凝っていた。ケルト音楽はアイルランドやスコットランド、スペインやフランスの一部のヨーロッパ諸国で伝承されているケルト民族の音楽。独自の地位を築いていて、いわゆるワールドミュージック好きに限らず幅広い音楽ファンに愛されている。
 主に使われる楽器は持ち運びに便利なコンパクトな楽器が多くフィドル、マンドリン、ブズーキ、ティンホイッスル、アコーディオン、独特な奏法のボウラン(バウロン)という打楽器、少し大きなものではイーリアンパイプ(バグパイプのようなもの)やハーディ・ガーディ(手回しオルゴールのようなもので弦を擦って音を出す)が代表的な楽器。通常大きなアンサンブルは組まず数人程度の規模で演奏される。歌のほうも独特の節回し。米国に渡ったアイルランド移民がフォークソングに影響を与えたとされ、英国のポップスにも多少なりとも影響を与えているので異なった形で接している方も多いだろう。リール(Reel)という8ビートのリズム(だんだんとテンポが速くなる)やジグ(Jigs)という6/8、12/8、9/8といった拍子に合わせて踊るダンスも魅力的で日本人がこのリズムを身につけるのは容易ではないだろう。

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 ハワイとはなんの関連のないケルト音楽の話をしてしまったが、何故かホノルルではアイルランド民謡を唄うはめになった。
 「ハワイアン航空ホクレア号」→本サイト内で多少触れているがタヒチへの旅行はホノルル経由だった。行きのトランジットが10時間程度あったためホノルルの町へくり出すことになった。とはいえたっぷり観光が出来るほどの時間は無い、とりあえずミニ観光をして買い物をすることに。
 韓国人ドライバーの運転するリムジンタクシーでパンチボール、ダイアモンドヘッド、カメハメハ像などの初心者コースを巡り、シェラトン・モアナ・サ-フライダ-の前で降ろしてもらい同ホテルでトロピカルドリンクを飲みながら、しばしリゾート気分に浸り、同ホテルで結婚式を挙げている日本人カップルを見てこれが海外結婚式かと思い、タヒチで必要な水着やTシャツを購入、空港へ戻る時間も近づいてきたのでハイアット・リ-ジェンシ-・ワイキキの前でタクシーを待つことに。
 タクシーが来ると、同じ場所でタクシーを待っていた初老の白人カップルもやはり空港へ向かうことが分かった。僕たちと白人のカップルはタクシー代をシェアするということで同じタクシーに乗り込んだ。しばらく話をするうちに彼らがアイルランド人でハネムーン!だったことが分かった。そしてアイルランドといえばということでアイルランド民謡のMarie's Weddingなら知ってるよという会話になり、4人でMarie's Weddingを唄うことに。そう僕たちは結婚式で演奏するためにマンドリンやティンホイッスル、ボウランを購入しMarie's Weddingを練習していたのだった。そして楽しく4人で唄っていると車窓の向こうには綺麗な虹が架かっているのが見えた。ホノルル空港に到着すると彼らは機嫌も良くタクシー代を全部払ってくれた。
 せっかくハワイでありながらカマカのウクレレを購入することもワイキキビーチを見ることも無く、遠く離れたヨーロッパのアイルランド民謡を唄うことがハワイで最初の音楽体験となったのだった。

 僕たちはVan Morrison & The Chieftains 「Irish Heartbeat」→amazon.co.jpに収録されているMarie's Weddingを聴いて練習に励んだ。
 スコットランド人もMarie's Weddingを自分の国の歌だと思っているふしがあるしRichard Thompson 「Henry the Human Fly」→amazon.co.jpのNobody's Weddingのように明らかにMarie's Weddingをペースにした英国風ロックンロールがある。

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2004/03/12

マドリードで列車爆破テロ

スペイン列車テロ(ニュース特集)→asahi.com

(南国とは関係ないニュースですが)

 すでに多数のサイトで取り上げられてると思うが・・・僕が過去に行った数少ないヨーロッパで特に気に入っている都市がマドリード(スペイン)とアテネ(ギリシャ)だったので。

 爆破テロのアトーチャ駅は南方面からの帰りに利用したけど、19世紀の終わり頃にモネオのデザインで建てられたなかなか素晴らしい駅だったことを記憶している。

続きを読む "マドリードで列車爆破テロ"

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「熱帯の旅人」からガムランを思う

 前回記事をアップした直後、ウィルス性嘔吐下痢症とやらになってしまいダウン。記事をアップするするのがおくれてしまっただけでなく体力の衰えとともに気力もダウン。ということで2回につもりがとりあえず1回ですみません。内容も未完結まとまりのつかないメモ状態でとりあえずアップします。
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 コリン・マックフィー著「熱帯の旅人(PARCO出版)」→amazon.co.jpからの抜粋と自分のガムランに対する思い込みと照らし合わせてみる。

 最初に登場するニョマン・カレールは幾つかのガムランの楽団長をつとめていて知識人としてマックフィーのガムラン研究に大きく影響を与えている。

バンジャールにはガムランのセットが三組あり、彼はその全ての楽団の長を務めているとのことだった。一つはレゴンの楽団、もう一つはガンドロンの楽団・・・・・・。  「ガンドロンっていうのはなんですか?」と私はきいた。  「レゴン舞踊に似ているのですが、少年の踊り手が女装して踊るのです。家々の戸口から戸口へ門付けしてまわったり、道で踊って金をもらったりするのです。(以下省略)」【楽団長の来訪】より

 いきなり演奏ではなくて踊りの話。男が女装して踊るというバリ島のダンスのねじれた面が書かれている。ガンドロンを見る機会はなかなかないだろうが、色々と探していると恋愛話を男性の踊り手によって表現するとあっても女装するという文献が見当たらない。どっちが本当か分からないが、必ずといっていいほど観ることが可能なクビャール・トロンポンという演目は男装した女性の踊りを男性が踊り、踊りのみならずトロンポンという楽器を演奏するといったさらにひねくれもの。しかし日本でもそういった性格の芸能も多いので理解しやすいと思う。それにしてもクビャール・トロンポンを考えながら観てたらなにか少し頭が変になりそうだったことを思い出す。

 ニョマンとの会話を通して、年がら年じゅう、芸能三昧に明け暮れていた王宮の内情が少しずつつかめてきた。かつてバリの芸能は王族というパトロンによって支えられていた。彼らの多くは回教徒から逃れてバリ島に渡ってきたジャワの貴族たちで、妻や妾や兵士や職人、それに役者や楽士までも連れてきて、ジャワ王朝の豪奢な暮らしを素朴ながら楽しんだのだった。  しかしそうした宮廷生活も今や過去のものになりつつある。政府経営の質屋には、王家が手放した銅鑼、宝石をちりばめた短剣、冠に金の指輪などが、戸棚いっぱい詰まっており、ロッキングチェア-、鏡、傘立て、花かご、電話などの品々で飾り立てられているありさまだ。【楽団長の来訪】より

 これまた演奏ではなくて当時の王宮の内情の話。バリ島の芸能が王宮のものから一般のものに変化していくあたりを簡単に説明しているが、民主化にあたって様々な国で同じようなことは経験していると思う。王宮などで演奏されていたときは対象は一部の人間なので音楽的な前衛性は求められていなかっただろうが、一般に下りてくるとアグレッシブに発展する。モーツァルトのような作曲家がいればさらに加速する。音楽とは関係ないけど没落後はチョコルドやアナック・アグンなどのクサトリアの方々もホテルなどを経営して収入を得なければならないなんて英国の貴族のよう。
 この後、ガムランが一般化しゴング・クビャールが登場したばかりの当時でも既にスマル・プグリンガンに対する危機感が語られる。このころからゴング・クビャールとスマル・プグリンガンある種対立した存在として現在まで続く。ガムラン体験者の話などを読むと、ゴング・クビャールはいざ知らずスマル・プグリンガンを習得する(または教えていただく)にはちょっとしたハードルがあるように感じる。

 当時ブラバトゥの王宮には二組のガムランがあったと、ニョマンは二〇年前を思い起こした。宮殿の外庭には大ガムランが置かれ、これは儀式や来賓を迎える時だけ演奏された。中庭には小さな銅鑼と鍵盤楽器で構成されたもっと繊細な作りのガムランがあり、音も滑らかでやさしく、ロマンティックな曲を演奏するのに使われた。このガムランは「スマル・プグリンガン」すなわち愛の営みの神スマラの名前を持つもので、心に甘くささやきかけるようなやさしい音色で、毎晩、弾いては休み、休んではまた弾く、というふうに夜更けまで演奏し続けたという。【楽団長の来訪】より

 スマル・プグリンガンの説明。ゴング・クビャールの激しさに慣れている人も、このイメージでスマル・プグリンガンの演奏を聞けばゴング・クビャールに対するもの足りなさが優しさに聞こえるかもしれない。プリアタン村の有名なTirta Sariはスマル・プグリンガンの楽団だし。スマル・プグリンガンを復活させるなんてガムランが一般に下りてきてゴング・クビャールという流行音楽が生まれることとまるで相反するようなことだがこのあたりがバランスというもの。竹のガムランであるジェゴグも昔から延々と受け継がれてきたわけではなく長い間途切れていたものが最近になって復活した。スウェントラ氏という人物の努力のたわもの。だから伝統音楽というよりもっと洗練された演奏になっている。スマル・プグリンガンも単純に王宮芸能の復興というよりもっとアカデミックな掃除が行われ洗練されて再登場したのではないかと思う。

ところが最近になって、音楽は村の若者たちにとって、儀式や踊りのためというより、もっと別の関心事になりはじめていた。事の発端はバリ音楽のニューウェーブともいえるクビャールという派手な音楽が大流行したことにある。(中略)  しかし(ニョマンいわく)、クビャールのほうは爆音のようなもので、音が消えてしまえばあとにはなにも残らないという。【楽団長の来訪】より

 こんなニョマン・カレールの不安をよそに現在に至るまでクビャールは主流のまま、当時ニューウェーブと表現されたものはすっかり定着してしまった。バンジャールどうしの張り合いも凄いようでバリ人の気質が伺える。そういえばバリ人に限らずインドネシアの文学を読むとその攻撃性に少し怯んでしまう。ウブドのあるホテルでドアが故障してそれを修理している間、スタッフの一人が盛んにPura Desa Kutuh(クトゥ村寺院)は最高と絶賛し、友人がそこのメンバーであることを自慢していた。ガムランは一種の自慢大会なのかもしれない。

 マックフィーは影絵芝居を見に行く。おなじみのワヤン・クリ。

 私は夜通し聴き続けた繊細な音楽を思い起こした。その楽器は耳慣れない奇妙な響きを持っていて、名状しがたい激しさがあり、神秘的な影の動きを音に翻訳しているかのようだった。四人の弾き手が2人ずつ向い合って座り、鉄琴のような鍵盤に、目にも止まらぬ速さで上へ下へと槌を走らせる。それはいうならば四台のピアノを完璧に音を合わせて合奏しているような光景であった。【影絵芝居】より

 ここでロットリングの演奏を初めて耳にする。四台のピアノを完璧に音を合わせて合奏しているような光景というのが西洋音楽からみてかなり神がかった演奏であることを表現していると思う。そういえばこの感触が強ければ強いほど僕なんかは(演奏において)素晴らしいと感じてしまう。初めて観たガムランよりその次にみたガムランの演奏が際立っていたのもこれが大きいと思う。ガムランを演奏してみないかぎりこのように西洋の楽器を比喩してみなければならないところが歯痒い感じ。それが今後も続く。

「影絵のランプは太陽だよ」  ほの暗い建物にイダ・バグース・アノムの声が響く。 「幕は空だ。影絵芝居を司る神はイスワラ神」  息をついで、 「これをダランのからだに置き換えると、ランプの光は目のなかにあり、炎は肝臓、煙は声、ランプ油は脂肪で、芯は骨髄、人形の軸は腱にある」

 帰る道々、この小さな王国の人形たちは、まるでチェスのコマにそっくりだと思った。のちに知ったところでは芝居の登場人物も同様だった。すなわち話の筋は、左の力と右の力の引き合いという単純な内容で、登場人物はこの二つの力のいずれかに明快に区分けされて勝ったり負けたりする。悪魔の手口はとうの昔に割れているから、最後には必ずや悪しきはくじかれ、調和がもたらされる。結末にはらはらすることもなく、芝居を長くするのも短くするのも自在である。終わり善ければすべて善し。望遠鏡のように伸びたり縮んだり、急の雨ならすぐに幕となり、あわてふためくことはない。【影絵芝居】より

 影絵師イダ・バグース・アノムの表現が素晴らしく、このような感性はそのままガムランの演奏にも当てはまるのではないかと感じた。その後のマックフィーの影絵芝居に対する解釈は微妙かもしれない。このように勧善懲悪ではなく善が負ける時もあるというのが面白いという話もある。ただ影絵で演じられる話自体は既に決まったストーリーで、長い眼で見れば最終的には勧善懲悪で落ち着いているのか。どうもストーリー自体は勉強不足でなんとも言えない。このあたりを哲学的に論じている本もあるので目を通すべきなのか?
 左の力と右の力の引き合いというのはガムランの演奏にも感じることだし(押し合いではない感じ)そのあたりは核融合で爆発するような音楽ではなく力の調和という雰囲気。ダイナミックスの付け方も音の数を重ねるのではなく、弾き手ひとりひとりが個別にダイナミックスを調整しているようにいつも感じた。楽器の数で全体的な音量は変わるけど、4人で演奏しようが40人で演奏しようが持ち味があまり変わらないのがガムランだと思っているのは僕だけだろうか?でもケチャなんてある程度人数がいないと様にならないから僕の解釈は間違っているかも。

 以下はニョマン・カレールのバリ音楽の解釈。

 つまりバリの音楽はこう解釈することができる。幹となる音の高低があって(これは楽譜に書き記すことができると思う)、ここからメロディーが生まれ、種から植物が育つように発展する。音楽に輝くような魅力と動きを添える装飾の部分は「カンティラン」と呼ばれ、枝先に咲く花にたとえられる。ちなみにこれを踊りにうつしてみるならば、踊り子のからだは幹で、頭や腕はメロディーであり、指先は踊りに金箔をほどこす花である、とニョマンは説明する。 「つまり花の部分に指導者の創意工夫が生かされ、それによって楽団の質が決まるのです。幹は変わりませんけれども、演奏のスタイルはしょっちゅう変化しています。私が子供の頃王宮で聴いた音楽は、もっとゆっくりで音色がやわらかく、素朴な響きでした。その当時に比べると今の音楽はずいぶん難しくなっています……」【ガムランの調べ】から

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 ガムランを論理的に分解した説明というか、本来ガムランと踊りは表裏一体であって、踊りの無い演奏であっても表現することは踊りに例えられるということか。僕はこの本を初めて読んだ時「カンティラン」と呼ばれる部分に非常に興味をもったことを思い出した。何せ「花の部分に指導者の創意工夫が生かされ、それによって楽団の質が決まるのです」とあるのだから。実際にガムランを観賞しているときも花の部分は頭を離れなかった。指の動きであるのなら確かに目で追える。ただそれもどのように創意工夫されているのか、単純に踊り手の技術力の差だけではなく楽団の質が決まるほどの工夫が施されているというならばそれをはっきりとさせたいフラストレーションをいつも感じている。誰かすっきりと教えてほしい。
 「カンティラン」というとガムランの説明ではガンサの中で高音部を受け持つ楽器のことで、そいつが演奏しているフレーズを「カンティラン」と単純に考えていいのだろうか。とすると完全にガムランは音程によって役割が決められているということ。メロディーよりカンティランが楽団の性格に影響を与えるところは西洋音楽のアレンジ法とは異なるところで面白いかもしれない。しかも「カンティラン」は「ウガル」というメロディーを受け持つ楽器の倍のリズムを刻む。というように楽器によってリズムの刻みがそれぞれ異なり、それが組み合わされうねりを作るものだからまるでミニマルな音楽と錯覚してしまう人もいるだろう。だが僕自身はフレーズ反復のミニマルとはだいぶ感じが異なるのが実感。だって覚えれば一曲まるまる主旋律なら口ずさめてしまうものね。

 作曲するといっても、バリ人のやり方はいわゆる作曲とはかなり違っていた。つまり音楽は個人の感情を表出させるのではなく、儀式や芝居の伴奏という機能を持っており、作曲という行為は創作ではなく、すでにあったものを発展させることを意味した。新しいメロディーが生まれることはきわめて稀で、新しさの中身は内容ではなく形式だった。つまりこのメロディーは前に聴いたのと同じだなどという批判はまったく的外れなのだった。  しかしロットリングは別だった。彼は文字どおり未知の旋律と形式を生みだしていた。(以下省略)【天才作曲家ロットリング】から

 つまりこのように何か未知の物を生み出しているそんなガムランを聴きたいと思っている。(日本版であればロットリングの曲は幻のバリ・ガムラン ビノーのスマル・プグリンガン→amazon.co.jpで聴くことができる。たしかにいつも聴いているガムランとは違う、解説は日本でのガムラン第一人者である皆川厚一氏、彼の著作「ガムラン武者修行(PARCO出版)」→amazon.co.jpは「熱帯の旅人」と並ぶ素晴らしい本。)

(未整理)
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 尻切れトンボのようになってしまったけど体力的限界のためここで中断。でも少し漠然としていたガムランを少しまじめに考え始めたのはよかったかもしれない。そのうち本当にガムランのことが語れるようになったら自分自身の言葉で書いてみようと思う。

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2004/03/08

「熱帯の旅人」からガムランを思う(序)

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 先週の「世界ふしぎ発見!」がバリ島だったので(普通ウェブログなら次の日にはアップしてるよね)僕のモードがバリ島ということで前回に引き続きバリ島に。
 それにしてもタイトルが「神の島」とは!グラハム・ハンコックの「神々の指紋」などを取り上げてきた同番組が、多神教であるヒンドゥー教徒の多いバリ島で「神々」ではなく「神」という単数形を使ったことに考えてしまったり(グラハム・ハンコックとかぶるのを避けたのかなあ)、草野さんの「マリンリゾート」という言葉に感動したり、出題内容がバリ好きな人なら全問正解確実の中で全問正解一人も無しというのも、まだまだバリ島いけるなとお茶の間的な会話をしながら、久々のブラウン管(液晶にシフトしつつある現在)で見るバリ島を満喫、明日にでもバリ島に行きたい気分。アグン山に始まった同番組、アグン山には登った経験はないけども普通の登山道と違ってほぼ山頂に向かって直線の登山は3142メートルという標高以上に大変そう。

 そしてバリ島とは関係無いけれど日曜日「常夏ガール」を見るとなんとホクレア号の話が!いつも「海はいいねえ」なんて程度にリラックスして見ていた同番組だけど自分が取り上げていた内容なので今回は真剣に見てしまった。(「ハワイアン航空ホクレア号」→本サイト内「サイパン島とカヌー」→本サイト内参照)
 新聞もとらずテレビガイドも買わず、いつも行き当たりばったりでテレビを見ているので本当は色々見逃しているんだろうな。今回の2つの番組で気に入ったのは、一般的な認識としてどちらもビーチリゾートのイメージが強いところなのにビーチ以外の話題を取り上げていたところ。「常夏ガール」ではハレアカラの山頂で星を眺めるなんて羨ましい。

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 長々と本題とは違うことを書いてしまったが、前回の「ガムランの夕べ」→本サイト内でガムランについて漠然とした感想しか述べられなかったのは何故か、ガムランのことを色々忘れていたために表現の手段が限定されてしまったのではないかと思い、初心に返ってコリン・マックフィー著「熱帯の旅人(河出書房新社)」→amazon.co.jpを軽く読み返した。そして自分自身のためにも文章を引用しながらガムランを思い出してみようと考えた。少なくとも僕の言葉でガムランの説明をするより断然いい。引用を使うと長くなりそうなので2回程度に分けることになるかな。それにしても読み返してみて大竹昭子さんの訳はとても読みやすくバリ好きには是非読んでほしいと思う。

 薦めておきながら「熱帯の旅人」は品切れ状態、中古市場や図書館に行かないと見つからないかもしれない。ということでコリン・マックフィー(1901~1964)について簡単に説明する。彼はカナダのモントリオールで生まれ、ジュリアード音楽院で音楽を学び、あるときガムランのレコードを聴いて魅了され1931年にバリ島に向かった。(その音楽は「ガムランのルーツ」というレコードに入っているらしい、CD化もされている)。そしてサヤン村に家を建てガムランの採譜、そして複雑なその音楽の分析、そしてアナック・アグン・グデ・マンダラ(通称:グンカ)やニョマン・カレールたちとともにスマル・プグリンガンの復活に尽力する。本書の他、「Music in Bali」という大著を残した。「tabuh tabuhan」というガムランを取り入れたオーケストラ曲を作曲している。彼のテキストはバリ島の音楽学校でも使われていたらしい。

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 また、「熱帯の旅人」以外では大竹 昭子、東海 晴美他共著「踊る島バリ(PARCO出版)」→amazon.co.jpも1990年本として貴重な本なのだけどこちらは絶版。河出書房新社さん、PARCO出版さんまたそのうち出版してね。

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2004/03/05

ガムランの夕べ

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 同じ南国とはいえポリネシアやミクロネシアの島々とはバリ島は異なっていた。同じ東南アジアのタイやシンガポール、香港ともバリ島は異なっていた。ポリネシアやミクロネシアとは文化もかけ離れているし比較的小さな島々で感じる快適さ(たとえばからっとした風の心地よさ)とは対照的に空気も重く、乾期であっても気持ちが良いというほどのものでもない。東南アジアの国々と異なっていたのは、僕が都市部ばかりいっていたのも大きいが人種や宗教の違いも大きい。
 とにかくバリ島は過去に行ったどの場所とも異なる雰囲気だったから、初めて行ったときはどう対処すればいいのか分からなかった。コリン・マックフィーの本を読んで以来10年以上行きたいと思っていてスケジュールも出来ていたのに、着いてみれば常にバリヒンドゥーの神々に見られているような、そんな落ち着かない気分だった。自分はこの土地にむいているのか、歓迎されいるのか、本当に馴染めるのか不安だった。

 バリ島がしっくりくるようになったのはガムランの演奏を聴いてからだった。初めてバリ島に行って以来、とりあえずウブドに泊まり必ずガムランの演奏を観賞する。ガムランの知名度を考えると説明するのも気が引けるが、ガムランとはバリ島に限らずインドネシア全域で打楽器合奏のことを指す(「叩く」のマレー語が由来)。但し僕がいうガムランはバリ島で演奏されているガムランを指す、理由はバリ島以外のガムランをよく知らないから。とにかく鉄琴のようなガンサ(こんな風に言うと身も蓋も無い)、鼓のようなクンダン(パタパタパタパタと刺激的)、銅鑼のようなゴング、クンプル(これで小節を数える感じ)、笛などで構成され、(西欧音階と比べて)独特の音階(ペロッグとかスレンドロ)で複雑な演奏をする。通常、観光客を前にしたときにはレゴンやバリスなどのダンスが付く。(というかダンスに付くと思っている人もいるだろう)宇宙的だと感じるときもある。詳しいことは別のサイトを。

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 初めてのガムラン体験は宿泊先から歩いてすぐのubud Puri Saren Agung(ウブド王宮)での演奏だった。ここはバリ島の他の地域の宿泊客がツアーで来るので人が沢山集まってくる。それなりにガムランを味わったが何故か少し物足りない。ということでフラストレーションを解消するために次はPura Desa Kutuh(クトゥ村寺院)へ行った。途中「こっちへ曲がるとプリアタン村です。」と言われたときに本当は僕はウブドという聞き慣れない土地ではなくプリアタン村やサヤン村に行きたかったことを思い出す。Pura Desa Kutuhに到着すると今回は練習時間からお邪魔する。そして最前列をキープしてもらい(ありがとうネカさん宅居候のほうのワヤンさん)真剣なミーティング風景を見せていただく。
 演奏が始まると圧倒され「素晴らしい」と溜息をついた。その演奏も観光向けのものではあったが、1曲目はジャワの伝統音楽をアレンジしたもので本来のバリ島の音楽ではない。1930~40年代、ガムランは決して伝統音楽ではなくワヤン・ロットリングなどの作曲家によって常に新しい曲が生み出されていた。ジャワの伝統音楽をアレンジするなどというその創造性の部分にとても感激した。演奏もキレが有り素晴らしかった。その後もガムランを聴きに行ってるがその時の感激が一番大きかった。今でもこのように新しい曲に取り組んでいる人がいるに違いないと確信し安心する。現在進行形、そういうことをバリ島に期待していたのだと思う。ただ伝統音楽というのではガムランの魅力は半減する。

 その演奏会でとなりに座っていたガムランの演奏をDATに録音していた男性は、本当はYama Sariというグループを聴きたかったらしい。スケジュールが合わず仕方なくPura Desa Kutuhに来たが思わぬ儲けものをしたと言っていた。その男性からイ・マデ・ルバ老人が既に亡くなっていることを聞いた。大きな火葬だったとのこと。こちらも現在進行形、考えてみればとっくに90歳を越えている。
 ガムランを聴くことでバリ島が見えるようになったのはコリン・マックフィーの本のイメージと直線で繋がったからだろう。初心へ帰れということ。ウォルター・シュピースの本を読んでバリ島に憧れた人はケチャが僕のガムランに相当するかもしれない。それにしてもガムランの独特の音色を聴くことで僕はまたバリ島に来たなと実感する。それ以来バリ島は僕にとって何度も足を運ぶ場所になった。僕にとってガムランを聴くことはバリ島旅行のスタートである(ナシゴレンを食べるのも)。そういえば未だケチャを観ていない。このことをバリ人に話すと「何回も来てるのにケチャを観てないんですか」と笑われた。

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2004/03/01

タヒチアンダンスの夕べ

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 フランス領ポリネシア(タヒチ)の首都パペエテでは毎年6月の終わり頃から約1ヵ月(南半球だから冬休み)に、さまざまなポリネシア文化芸能を披露するフェスティバル「ヘイヴァ・イ・タヒチ」というフェスティバルが行われる。同時期、ボラボラ島でも「ヘイヴァ・イ・タヒチ」のミニ版が行われる。どこで読んだが、何故この時期にフェスティバルが行われるかというと宗主国フランスのフランス革命記念日にあわせたらしいというところがなんとも言えない。
 その中でもタヒチアンダンスのコンテストは有名。現場へ行ったことが無いのでどのような規模かは分からないが、そこでアピールできるとホテルのディナーショーなどでの仕事に有利になるらしい。そのあたりはハワイのメリー・モナーク・フェスティバルとは少々趣が異なる感じ。しかしハワイ同様、近年アイデンティティの盛上りが感じられるのも事実でこの祭りの意義も少しずつ変化している。
 僕がタヒチアンダンスを観たのはボラボラ島の某超高級リゾートに泊まっていたとき。タヒチアンダンスはアフロア、アパリマとよばれるハワイのフラのように手で表現するダンスとオテアと呼ばれる有名な腰振りダンス。アパリマなどはフラなと比べると体の動きも激しく良い意味で原始的だが楽しい。男のダンスも力強い。演奏もトエレや太鼓といった打楽器を激しく叩く。アフロアのような少しゆっくりしたダンスもバックの8弦ウクレレは超早弾である。それを観賞している客の大半は気取った西欧人たち(本当はバブルで急に成金になった田舎のアメリカ人もいたな)。まるで映画「6デイズ/7ナイツ」の世界の様でそこにいる自分がなんだか可笑しい。

 僕は、その旅先が初めての場合、その国(地域)のCDを購入して音楽の予習をする。タヒチの場合も同様に何枚かのCDを購入した。(ただし国内版のタヒチアンミュージックは少ないので購入するCDも限定される。僕の親の時代にはあんなに流行ったのに)
 このCDには参った。一聴には80年代に流行ったような少し時代遅れの電子音による伴奏が多く、メロディーは想像できる南国的なものだがハワイアンに比べ明るく抜けすぎているような感じで日本にいるとどうもしっくりしない。何回も聴いているとその能天気さに人格が破綻しそうなものもあった。(タヒチ音楽が好きな人御免なさい)
 だからあまり期待しないでいったのだが・・・、うーん、ボラボラ島に着くとそこは南太平洋の海、空、山が織り成す見たこともないような素晴らしい風景、体感したことの無い風、湿度。旅行中ずっと素晴らしい天気に恵まれ、バーやレストランでいつも聞こえるタヒチの音楽がまったくこの環境にあっている(日本で聴いたものと同じ音楽が流れているのに)。そして滞在中に頭の中もすっかり南国ボケになってしまい、帰国後は社会復帰のために長いリハビリが必要となった。

【追記】

 日本で購入したものは上記に記したような内容だったが、現地で購入したCDには素晴らしいパーカッションセッションなどがあり、フランス盤などで探せばいいものが沢山あるらしいことに遅まきながら気がついた。そして安っぽい演奏にしても太平洋の真中という恵まれない環境の中で、古い機材とスタジオでなんとか音楽を吹き込んでいるその姿が眼に浮かんで応援したくなる今日この頃。
(最近仕事が忙しくなってきたということでこのくらい、今週は紀州へ出張のため次の更新遅くなるかな)

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ビキニ環礁水爆実験50周年式典

苦難今も 水爆実験から半世紀、マーシャル諸島で式典→asahi.com

前回の話が話だったので(「ナージャの村、東海村」→本サイト内)まるで続きのよう。
今日がそんな日だって↑を見るまで分からなかった。
50年前のこの日、常夏のロンゲラップ島に雪が降り、この死の雪で子供たちは遊んだ。
こんなに経っていたんだ。しかし50年とは半減期にもほど遠い。

そして同日、何か因縁づているわけではないだろうが・・・

被爆病理学の第一人者、元名大学長の飯島宗一さん死去→asahi.com

原爆症について偉大な功績を残した方。

最近読んだミクロネシア関係の本で同実験に関する記述のあるものを、
オリヴァー サックス著「色のない島へ―脳神経科医のミクロネシア探訪記(早川書房)」)→amazon.co.jpでは、米国側からのルートでミクロネシアを訪れるけど、途中でこの恐怖に少し触れるシーンがある。アメリカ人の反応にしては真っ当なほうだと思う。
大野 俊著「観光コースでないグアム・サイパン(高文研)」)→amazon.co.jp、(シリーズものらしいタイトルだけど)マーシャル諸島での同実験の後遺症に関してとても易しく解説している。

僕は原子力について完全否はしないが、米国に対するミクロネシアそして東京に対する東海村はどうかなと思う。

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