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2004/02/27

ナージャの村、東海村

 昨年、写真家:本橋成一氏の映画が2本DVD化されていた。映画のタイトルは「ナージャの村」と「アレクセイと泉」、内容的に僕の住む地域と関連性があると思い購入した。

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「ナージャの村」 監督:本橋 成一 (ポレポレタイムス社)→amazon.co.jp
「アレクセイと泉」 監督:本橋 成一 (ポレポレタイムス社)→amazon.co.jp

 この2つの作品は、1986年に起きた旧ソ連のチェルノブイリ原発事故による放射能の拡散によって、地図から消滅した2つの村を舞台にしている。「ナージャの村」の舞台となるベラルーシ共和国のドゥヂチ村は、チェルノブイリの風下にあったために強制移住区域となり300世帯以上暮らしていた村が映画の時点(1997年)には6世帯に減少し、村は地図上から消えた。
 映画は、時折チェルノブイリ後を感じさせながらも、ほとんどはそれを感じさせない。ドゥヂチ村の美しく素朴な風景、生活を写している。その映像はとても綺麗で、映画館のような大画面でみたら息を飲むことだろう。ドゥヂチ村の素晴らしさに引き込まれていくに違いない。ドゥヂチ村の人々は生まれ故郷を愛し、残った6家族は放射能を理由に村を棄てることをしなかった。また、村を出て行った人たちも最後は死んで村に帰る。
 何故そのような村がチェルノブイリの犠牲になったのだろう。電力を大量消費しているはずの某大都市ではなくドゥヂチ村のような素朴な村だったのか、テクノロジーの犠牲としてはあまりにも大きい気がする。

 僕は茨城県東海村で臨界事故が発生したとき(1999年)、東海村の南に隣接する町に住んでいた。すっかり原子力発電所のある生活に溶け込んでいたし周囲にも原子力発電に関係する知人も多かったことから、安全性に対して麻痺していたかもしれない。
 臨界事故が発生すると、10km圏内への立入り制限及び外出禁止令が出された。僕の住んでいた地域は10km圏内であったため、僕は家から出られなくなり、インターネットで環境放射線モニタリング情報→核燃料サイクル開発機構をチェックし、自分の家の周りの放射線量が上昇していくのに驚いた。僕の住んでいた地域は風下だった。外出禁止令とはなんだったのだろう。放射線は家の壁を貫通するし、何故風上への避難ではなかったのだろう。チェルノブイリというものが既にあったのに。
 僕の友人の家族は臨界事故の現場が見えるところに住んでいた。友人の妻は妊娠中だったが低線量被曝が確認された。

 チェルノブイリも東海村も既に風化しつつあるように見えるが、現在、僕の住んでいる町では以下のような活動を地道に続けている方がいる。みなさん(とはいっても見ている人は限られているだろうが)の周りでもこのような活動をしている方たちがいるのでないだろうか?

  http://www.k-mariko.com/sukuokai/top.htm→チェルノブイリの子どもを救おう会

 ベラルーシ共和国の放射能汚染地帯に住む子供たちを、日本に招待し健康回復の手助けをしている。事実、この活動によって子供たちは来日の時より元気になって帰っていく。以前「チェルノブイリの子どもを救おう会」の主催で「ナージャの村」が上映された。また東海村では、別の方たちによって「アレクセイと泉」が上映された。

(旅ねたからちょっと離れて)

【2005/09/09追記】

チェルノブイリの子供を救おう会のページが無くなっていた。おじさん高齢だったからなぁ。

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2004/02/24

ジャワ料理を食べながら

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 一昨年のバリ島(爆破テロの直後、「サリ・クラブ爆破テロ」→本サイト内参照)では、デンパサールにあるジャワ料理の店に案内してもらった。こちらから現地ガイドのワヤン(仮名)と一緒に食事が出来ることを条件にしたので、ワヤン、僕たち双方で食べられる妥協案としてジャワ料理になった。その店はバリ人には値段が少し高めで金曜の夜や土曜に奮発して家族で食べに行くところ、日本人からすると観光客向けではないので激安の店となる。ジャワ料理=インドネシア料理という話もあり、全体的に優しい味でバリ人には少し辛さが足りない。日本人はスパイシーなものが苦手との彼なりの判断(過去の統計による、はたまた定説)で、辛いパダン料理は避けられた。ちなみに僕は辛い料理が大好きなのでそちらでも良いと思った。
 店のつくりは観光客が行く洒落たものではなくワルンといった風情で入り口のすぐ脇に丸見えキッチンがあり、その横を通り抜け、まったく風通しの良い店内には長テーブルにパイプ椅子が並べられている。出てくる料理はまるで台湾や香港の屋台のように、全て赤や緑のプラスチックのお椀に入ってくる。スープはソト・アヤムのように透明なスープに様々な肉のボールが浮いている。その他に中華料理のように挽肉やら野菜をパーム油で炒めたもの。そしてバリ腹を避けるために僕たちはテボトル(テ=紅茶、やたら甘い紅茶飲料)とスプライトのストロー挿し。
 案の定ワヤンは自分用の皿に料理を分けるとサンバル(単純にいえば辛いソース)をかけ、僕たちもサンバルをかけて食べてみた。肉ボールは豚の他、牛や鶏と数種類が出された。彼が牛の肉を口にしたので「ヒンドゥーなのに牛は大丈夫なの?」と聴くと「牛、大丈夫、大丈夫」と言ってまた口に入れた。といことで、「バリヒンドゥー初歩」→本サイト内にあるようにボッダ派かスノップな人間なのかどちらかであろう。まあ色々な彼の言動を聞いている限り後者のようである。とにかく鶏肉ばかりで少し飽きていた僕たちには美味しかった。

 話が最初に戻るが、この店がどう少し高級かと説明するには、1にやや清潔な感じ、2に新聞を読んでいる人がいる、それに3として中華系の女子学生が入ってきた、というところで説明できるらしい。特に今回に限り3は重要。
 ということで食事をしてしばらくすると、中華系の女子学生たちがキャアキャアと入ってきた。そして一人の女の子が携帯電話を取り出し何か喋りまくっている。それを見たワヤンが反応した。彼は「バリに住んでいる中国人は金持ちです。」と言って自分の胸から携帯電話を取り出し「僕も持ってます。仕事用ですが」とニヤッとした。ただし少し羨ましさが顔に。携帯電話を持ち歩いていることはそれで彼にとってステータスらしいが個人のものではないので「あんな子供が持って大人の僕が持ってないなんて」という感じで少し不満なのだろう。ということで平日の昼間に、携帯電話を持ち歩くような中華系の女の子が入るような店は、バリ一般としては少し高級なのである。まわりを見てみれば店は空いてはいるが、少しお金のありそうな人たちばかり。食事もゆったりと食べている。

 急な展開ではあるが、インドネシアにおける中華系の人々を、単純にお金持ちで羨ましいというバリ人の感情のみで書くのは、中華系の人々にとってフェアではないだろう。華人であるための苦労も多い。よくバリ島のガイドブックで中国語の本など、漢字が書かれたものは持ち込めないとあるのを目にした方も多いと思う。簡単ながら少しかための説明を。(ワヤンの気持ちとは関係ないと思うが)

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 1965年、インドネシアではインドネシア共産党によるクーデターをスハルト達陸軍が鎮圧するという9・30事件が発生し、これによってスハルトが実権を握り、オルデ・バルー(新秩序)という政策がとられることになった。これには西側諸国の援助による大型プロジェクトの推進が含まれ、それと同時にスカルノ派の粛正、共産党を非合法化し、中国との国交を断絶することとなった(つまり反共)。このことを引き金に華人に対するそれまでのフラストレーションを起爆剤として暴動が頻発し(軍の権力抗争及び華人実業家と日本企業の癒着への反発によるマラリ事件という反日暴動などもそうかな)、結果として華人の経済活動を制限しプリブミ(華人以外の現地人)を優先させる政策を施行。(余談だが、オルデ・バルー下での高度経済成長のもと東ティモールへの侵攻も行われる。)その間、インドネシアにおける華人は非常に虐げられた状態となった(ただし一部の華人財閥はなぜかバブルの中、急成長)。その後、1990年には中国との国交を回復し、バブルがはじけインドネシアに経済が悪化すると1998年(意外に最近)にはジャカルタで大暴動が発生、多くの華人も殺害された。そしてスハルトが失脚しオルデ・バルーも終わりを告げ、漢字が解禁された。
 とにかく一般の中華系の人々にとってインドネシアは、何時このような状態になるか分からない場所でもあるのだ。裕福ではあるが、そんな不安定な場所で生活しているというのはどんな気持ちなのだろう。(しかし携帯電話の事とこの話はレベルが違うのでバランスがとれないなあ)

 多数の民族が集まって成り立っているインドネシア。各民族が微妙な均衡を保って生活している。国民に単一民族の意識が高い日本(本当にそうなの?)においても過去にはこれ以上のことがあっただろう。現在も差別意識のない差別は延々と続いている。ジャワ料理を食べながらこんなことを思案するのも旅なのかもしれない。旅は、自分の国のことを少し離れて考えられるいい機会でもある。それにしても東南アジアの料理は美味しい、そのうち旅先で食べた料理について書くのもいいかな。

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2004/02/20

写真家による本2冊

今回は写真家による本を2冊紹介する。実は2人とも写真展にも行ったことは無いし写真集も所有していない。でも本の内容に感動してしまったので。(たまたま連続で読んだ2人の作家が写真家だっただけ)

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「旅をする木 」 星野 道夫 (文春文庫)→amazon.co.jp

 多くの方が知っているように、星野道夫はアラスカを中心に動物や自然を撮りつづけた写真家でファンも多い。1996年にカムチャッカ半島でヒグマに襲われ40代半ばで亡くなった。この「旅をする木」は写真が一切なく、作家としての星野道夫を堪能できる。アラスカの自然をこれだけ豊かに表現できるのかと溜息がでた。非常に厳しい自然を相手にしているはずなのに、その優しさがとても暖かく南国好きも僕もアラスカの大地へ行ってみたいと思ってしまった。1つ1つは短いエッセイだが33編のエッセイはまるで繋がっているかのよう。
 この本が非常に素晴らしいところは、アラスカの大地の描写の素晴らしさのみならず、彼を取巻く人々の描写が非常に愛に満ちたものだからだろう。彼のアラスカ行きのきっかけとなったモーブリイの空中写真そして彼との偶然の出会い。遭難した友人のこと。つねに危険と隣り合わせのブッシュパイロットのその陽気さ。
 この本は友人の死や星野道夫自身の死も含め死というもを考えずにいられない。何人かのブッシュパイロットが立て続けに事故で無くなり、仲間が死んでいく様子をいくつかのエッセイをはさみ展開するが、次は自分であると星野道夫自体は考えていたのだろうか。いずれ自然の中で死んでいくことを覚悟していただろうに、妻をアラスカに呼んで、そして新しい命の誕生に希望を描いているところは思わず涙がでてしまった。僕自身も子供を持ったばかりなので自分たちや子供の未来も含めて気持ちが混乱してしまった。
 15年近く前、僕はヨーロッパに行ったが、その頃はヨーロッパに行くためには通常北米アンカレッジを経由した。その時飛行機の窓から見た雄大な氷河群、ユーコン川の美しい風景は今でも強い印象として記憶に残っている。彼はその大地を舞台に活躍し、そして死んでいった。
 数日前、電車の中で1人の初老の女性がこの本の単行本を読んでいたのを見かけた。きっと星野道夫とともに雄大なアラスカの大地を踏みしめていたに違いない。
 実は僕自身はネイチャーフォトと言われる写真はどう観賞してよいのか分からなかった。その良さに気づかず、ただ動物などの被写体を追っているだけの単純な写真ではないかと敬遠していた。この本を読み終えた後は、彼の写真から、(自然、風景を含めた)被写体の静かな息づかい、その驚くような奥深さが感じられるようになったと思う。

  http://www.michio-hoshino.com/→星野道夫公式サイト

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「アジア家族物語―トオイと正人」 瀬戸 正人  (角川ソフィア文庫)→amazon.co.jp

 文庫化される前は、ただ「トオイと正人」というタイトルだった。瀬戸正人は「バンコク、1983」、「Living Room, Tokyo」等の写真展が示すとおり星野道夫とは対照的な作品を撮る。残留日本兵である父とベトナム系タイ人の間に生まれ、幼少時代をタイ国のウドーンタニで過ごした。本の内容は、父の帰国とともに日本へ渡り、タイ国での名前である「トオイ」から日本名である「正人」になり、やがて自分のルーツを辿るようにバンコクへ、ウドーンタニへ、そしてベトナムへ行くという自伝的小説である。テーマはよくあるルーツ探しの話の1つで本作品の良さを伝えるのは難しい。
 軍曹だった彼の父親はビルマ戦線に合流するため、ラオスで待機しているところで終戦をむかえた。そして下仕官以上は処刑されるとの噂から密林に逃げ込み、やがてタイ国のウドーンタニにたどり着いた。そこでベトナム人として生活し(ベトナム人社会に守られ)、写真店が成功し、「トオイ」が生まれ、やがて日本に帰国し、そこで父親が再度写真店を営み「正人」は写真家の道を進む。
 一見波乱万丈のようではあるが、この時まで「正人」は周囲の流れにそって生きていたにすぎない。日本での生活にも比較的早く馴染み(母親とは対照的に)、学校などでいくつかの差別にあうが、比較的スムーズに「トオイ」から「正人」なったといってよい。むしろ「トオイ」を失うのが早かった。その分どうやって「トオイ」を取り戻すかが後半のテーマになる。
 その後半はとてもエキサイティングで、かつ非常にノスタルジックで、そしてカオスでもある。アセチレンの匂 いをきっかけに「トオイ」を取り戻し、自分のとるべき道を発見し、そこからのスピード感ある展開はとても写真家の文章とは思えない。だが、彼の写真を見て、そこにある匂いの揺らぎを感じたときに写真も文章も共通化した魅力をもっていることに気が付く。

 彼自身、文庫化にあたってのあとがきで以下のように述べている。

 ぼくは(トオイ)が(正人)という日本人になった時の間を思い出すことができない。しかし、(正人)が(トオイ)を発見した刹那の匂いをありありと憶えている。 (マサト)もすぐそばにいた。3人そろって、そして3人して並んで、その重たくそ して濃密すぎてどこへも拡散できないでいる匂いを嗅いでいた。

 この本の中には沢山の記憶の匂いが言葉となって詰まっている。

  http://www2.odn.ne.jp/~cdr08020/→瀬戸正人web Gallery

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2004/02/16

サーフィンについて

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 78年のアメリカ映画に「ビッグ・ウェンズデー」→amazon.co.jpという映画があった。(監督はジョン・ミリアス)
 ジャン・マイケル・ビンセント、ウィリアム・カットの主演で、62年のカリフォルニアのモントレー(実際の撮影はハワイ・オアフ島のサンセットビーチ)を舞台にしたサーフィン映画である。ウィリアム・カットはドラマ「アメリカン・ヒーロー」にも主演し女性からの人気が高かった。
 当時僕は中学生で、映画は少し遅れて観た。80年頃で高校生だった。
 監督自身の実体験をベースにカリフォルニアの3人の伝説的なサーファーを描いた映画で、ベトナム戦争による中断、そして時代が流れ、彼らは過去のサーフレジェンドと化してしまった現代に、老いた体で伝説の大波「ビッグ・ウェンズデー」に挑戦するというサーフスピリットと友情を描いた映画である。
 当時日本ではサーフィンはあまり一般的ではなかったと思う。僕が中学生の時にはスケートボードブーム(当時はローラーサーフィンとも呼ばれていた)で僕は骨折をしながらもスケートボードに夢中になっていた(すこし早めの横乗り体験といえば格好よいね)。そのころ良いスケートボードはあまり無く、近所に1軒だけあったサーフショップでボードを製作してもらい性能を競い合った(とはいっても中学生だからペイントやベアリングとかの方で盛り上がっていたが)。

 アメリカでは既に60年代にはサーフィンは一大ブームになっていた。たとえば、映画「地獄の黙示録」→amazon.co.jpでは、
---シーン:
映画前半の準主役的登場人物、キルゴア中佐は部下にサーフィンのチャンピオンがいたことをきっかけにベトナムはバレルの海岸で敵からの砲撃の最中、部下にサーフィンをさせる。(しかも自分達が落としたナパーム弾が起こした風で波が立たなくなったオチ付き)
---
のように。
 日本で本格的にサーフィンブームになるのは80年代中頃からで、この時のサーフィンのイメージは想像していたビッグ・ウェンズデーのようなものではなく、たとえばナンパであるとか丘サーファーといった類のものが横行し、実際にはサーフスピリットをもった人たちも大勢いたのだろうが、そちらばかりが目に付いてファッションばかりを追う姿に幻滅した。

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 それから20年弱が過ぎ、最近は不思議なことにサーフィン文化に遭遇することが多くなってきた。(未だにサーフィンはしてない。)
 旅のスタイルが20代の頃の「都市を歩く」から30代になり「自然を歩く」にシフトしてきていた。当然ビーチを歩くことも多くなり、サーフィンに遭遇することも多くなってきた。
 たとえばバリ島にはウルワツという素晴らしいインサイドウォールのポイントがある。オーストラリアの若者は成人の儀式としてバリ島を訪れる。ハワイにはノースショアー、ワイメアベイという世界有数のビッグウェーブが立つ聖地と言われる場所があり、ポリネシアトライアングルの中心にはサーフィン発祥の地であるタヒチがある。(ハワイで出会ったある若者はサーフィンのために働いていて、タヒチへの熱い想いを語っていた。)
 これらの場所を訪れることによってそれまで日本では感じなかった、パドリングをして沖に向かい、そして波が来るのぼんやりと待ち、波に乗ればジェントルにコースを決めていく、競争の無い競技性と精神性をみたと思う。それともそれを感じ取れるようになったのだろうか。
 そして日本へ帰るとそれらの土地に関する本を読み、そこでまたサーフィンの話に出会う。(マリファナが絡まない)サーフトリッパー達の話は非常に興味深い。なかなか奥が深いのである。日本では余計なもので沢山装飾されていたものが非常にシンプルなものになり、かなりの偏見が払拭された。そういった目で見たときに日本でのサーファーも随分変化してきたのではないだろうかと感じる。

 僕は旅が好きなように写真を撮ることが好きである(というか旅をした時だけ写真を撮る?)。初めの頃は香港やバンコクなどのアジアの都市のエネルギーに魅せられ灰色のビル群とそこに密集する人間、時折入る原色のオブジェクトを舞台に撮っていた。それに疲れると南の島で放電しながら誰もいない海を撮り、やがて島で暮らす人々、生活に目が向けられるようになった。小さな島は1つの国をスケールダウンしたようなもので日本のような大きな国ではスケールが大きすぎて気が付かないことが手にとるように分かる。写真に収められる人間もせいぜい指で数えられるくらい。だからサーフィンの存在にも目を向けられたのかもしれない。
 サーフィンをフレームに納めるのは非常に技術が必要だろう。しかし今度、旅の途中でサーフィンに遭遇したら写真にしてみようと思う。海に身を任せ、何者とも戦わず、ただ大自然と融合するためのまったく稀有なスポーツを、感じる写真を取りたいと思う。

【追記】

 だったらサーフィンにチャレンジしてみたらと言われそうだがどうだろう。僕を知っている人は無理するなよと言いそう。因みにサーフィン文化を語るには相当初心者のため不適切な表現や間違いがあるかもしれないけど御免なさい。映画も「エンドレスサマー」→amazon.co.jp「イン・ゴッズ・ハンズ」→amazon.co.jp「ブルークラッシュ」→amazon.co.jp「ローカルボーイズ」→amazon.co.jp「ショック・ウェーブ」→amazon.co.jp「バリ・ハイ」→amazon.co.jpその他多数の映画を差し置いて「地獄の黙示録」を引き合いに出すとは申し訳ない。

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2004/02/11

今週はお休みです(04年02月第2週)

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息子が水疱瘡になってしまいました。ドタバタしているので今週のアップは休みます。
僕自身、水疱瘡になった記憶がないので心配です。

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2004/02/05

サイパン島とカヌー

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 ホクレア号が伝統的な航海術でハワイからタヒチへの5000kmの大航海を成功させた事は「ハワイアン航空ホクレア号」→本サイト内で触れているが、伝統的な航海術という点に関しては多少説明が抜けていた。
 1976年に最初のハワイ-タヒチ(マルケサス)間の航海を成功させたとき、ナビゲーターとして乗っていたのはハワイ人ではなくサタワル島のマウ・ピアイルグだった。サタワル島はミクロネシアの島で住民は伝統的カヌーの航海術に長けていたことで有名だった。ハワイ人がナビゲーターでなかった理由は簡単でハワイでは既にカヌーの航海術は廃れていたからである。そこで伝統的な航海術をもったサタワル島の人間に白羽の矢が立った訳である。
 ホクレア号が1976年の航海を成功させる前年の1975年に、サタワル島のルッパン率いるチェチェメニ号がサタワル島から沖縄海洋博会場の3000Kmに及ぶ航海を成功させた。(1976年に「チェチェメニ号の冒険」というタイトル、森繁久彌によるナレーションで映画化)
 ホクレア号を率いたのは天才と言われたルッパンではなくピアイルグだった。通常サタワル人のナビゲーターは航海に必要な星の情報や海流の情報をスターソング(星の歌)にして覚える。当然ハワイ、タヒチ間のスターソングは存在しない。ピアイルグは星を覚えるためにハワイのビショップ博物館のプラネタリウムを使った。
 斯くしてピアイルグはホクレア号の航海を成功させ、古代(とはいってもポリネシアスケールだが)の伝統的技術はハワイ、タヒチ間の航海が可能だったことを証明した。しかしピアイルグは船上での何人かの振る舞いに腹を立てタヒチで下船してしまった。その後ハワイ人のナイノア・トンプソンはピアイルグを師匠として伝統的航海術を身につけた。そして1980年にハワイ人のスターナビゲーションによる航海を成功させる。

 去年、サイパン島へ行った。その時はリゾートらしくゆっくり本でも読もうということで池澤夏樹著「夏の朝の成層圏(中公文庫)」→amazon.co.jpを妻に持たせ、僕はケネス・ブラウワー著「サタワル島へ、星の歌(めるくまーる)」→amazon.co.jpを持っていった。どちらもミクロネシアをテーマにした本である。
 サイパンでは毎朝目を覚ますとバルコニーに行って、環礁にうちつける白い波やそよ風にゆれる椰子の葉を時折眺めながら「サタワル島へ、星の歌」を読んでいた。「サタワル島へ、星の歌」はミクロネシアに住む3人のエコロジストをレポートしたもので、本と同タイトルでもある第2章を読んでいた。その章はタイトルから容易に想像がつくようにサタワル島のカヌーについて取材しており、サイパン島在住のオロパイというピアイルグの親戚を訪ねている。
 オロパイはカロリニアンである。サイパン島の先住民というとチャモロとカロリニアンであるが、カロリニアンはスペイン人統治時代、サイパン島のチャモロ人口が急激に減少したのを機にカロリン諸島(ラモトレック、サタワル島等)から移住してきた。サイパン島の南に位置する空港の周辺には太平洋戦争の痕跡とともに現在もカロリニアンの村落がある。
 サタワル島と違ってサイパン島はすっかり米国化していてカヌーのようなカロリニアン文化は既に無くなっているも同然だった。その伝統文化の没落ぶりに懸念を抱いたオロパイはサタワル島へ行きピアイルグからカヌーの航海術を習得した。(まるでナイノアのようじゃないか)

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 その日僕たちは、部屋の前に広がる環礁付近でシュノーケリングをすることになっていた。前日の予測では水位が低くシュノーケリングは無理かもしれないとの事だったが、無事シュノーケリングができることになった。大変天気も良くとても爽やかなシュノーケリング日和となった。お世話になるところは、日本人ひとりと何人かのサイパン人で営業していた。
 「今日は僕じゃなくて彼が案内します。」と日本人スタッフがサイパン人スタッフを指して言った。僕は読んでいた本の影響もあって思わず「彼はチャモロ人ですかカロリン人ですか?」と聞いた。すると彼は「今はチャモロもカロリニアンも混ざって関係ないですから」と差別的展開にならないように答えたが、少し考えて「彼はカロリニアンですよ」と答えてくれた。
 僕たちはカロリニアンの操縦する白い帆のホビーキャット(以前来た時には帆は何色かに塗られていた)に乗り込み環礁付近のポイントに向かった。砂浜周辺の黒い藻だらけの海と違って、そこは透明度の高い水と生きた珊瑚とそれに群がる色とりどりの魚たちで創られていた。暫く”タヒチより美しい”そのポイントでシュノーケリングを楽しんだ。その日は少し流れが強く、終わった後に思ったよりも疲労していたことに気が付いた。良い気分だった。
 帰りのホビーキャットの上で僕たちはカロリニアンに自分の息子の名前をホクレア号からとったことを伝え、「ホクレア号のナビゲーターはサタワル島の人だったことを知っているか?」と聞いた。彼は「彼の名前を知っているか。」と切り返してきた。何故か僕はピアイルグの名前を思い出せなかった。彼は続けた「僕が子供の頃、僕の村に彼の乗ったカヌーがサタワル島からやって来た。みんな興奮して出迎えたんだ。」「ピアイルグ」彼は言った。「ピアイルグ」僕たちも続いた。発音は難しかった。そして僕たちは「ピアイルグ」を連呼しながらホビーキャットを砂浜に向けた。彼の子供が黄色いプラスチックのカヌーで遊んでいた。砂浜に近づくとカヌーを降りて僕たちを迎えてくれた。

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2004/02/02

アフガニスタン文学

 アフガニスタン-もちろん行ったことはないのだが、最近は欧米文学以外の翻訳ものを探していて印象に残ったので(それにしても、意気込んではみたものの欧米以外の地域の書籍があまりにも翻訳されていないので少し残念)

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「灰と土」 アティーク・ラヒーミー  (インスクリプト)→amazon.co.jp

 僕がこの本を読んで感じたことは、2001年当時僕はアフガニスタンやイスラムについて何も理解していなかったということだった。
 ストーリーを要約すると、ソ連軍の侵攻により家族を奪われた老人が衝撃波によって耳が聞こえなくなった孫をつれ炭坑で働く息子に会いに行くというもの。僕は中で描かれるであろう1970年代後半のソ連軍による侵攻と2001年の事件を重ね合わせ読み始めた。僕はその悲惨さをドラマチックに描いているものと単純に考えていたが読後感はまったく異なるものだった。
 この本は老人ダスタギールに「きみ」と呼びかけ、ダスタギールの現在過去そして夢の中までをも追いかける。その中で描かれていくのはアフガニスタン人の倫理観であろう。特に「王書」を引き合いにだした過去のエピソードや復讐といったキーワードは日本人の倫理観と大きく異なる。話自体は100ページ程度で字も大きいから短時間で読めるが、人によっては若干の抵抗を感じながら読み進めなければならないかもしれない。これはイスラム文学の独特の味付けのせいかもしれない。初めてアフガニスタンへ行ってその土地の食べ物を食した場合同じような味がするのだろうか。
 この本がアフガニスタン文学の中でどのように評価されているのか素人の僕にはまったく分からない。しかし海外の現代作家の著作がなかなか翻訳されない日本にあってアフガニスタン文学であるこの本はその中でも貴重であると思う。
 アティーク・ラヒーミーは映像作家で文章は非常に映像的である。アフガニスタンからフランスへ移住し本書はダリー語で出版された。その後フランス語で出版され注目されることとなった。映画化もされ2004年中には公開予定である。僕が本を通して感じた炭坑へのトラックを待ち続けるダスタギールと砂埃の舞うアフガニスタンのその風景は、どのように描写されているのだろう。過去に目にしたアフガニスタンの映像とどのように違って見えるのだろうか。

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