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2004/01/30

バリヒンドゥー初歩

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 バリ島のアコモにはテレビが無いことが多い。隠れ家リゾートなどと言われ20室程度のヴィラを配し少ないゲストに手厚いサービスを提供することを売りとする高級リゾートから格安のロスメンまで、なにかしらの理由でテレビが部屋に置かれていない。 (テレビを排することにより非日常の演出をすることを目的としているものや単に経済的なところによるものまで、従ってどっちの理由にしろ僕たちもテレビの無い部屋に泊まることが多い。)
 だがテレビはリアルタイムに現地情報を届けてくれるから時に必要となることもある。僕の場合も個人的にテレビが必要と感じた時があった。クタのサリ・クラブ爆破テロの直後に訪れた時である。いつどのように状況が変わるか分からないから(飛行機が飛ばないとか、新たなテロが発生したとか)言葉は分からないが映像だけでも確認したくなった。しかし、最初に泊まったホテルはいわゆる一泊200ドル以上のリゾートだったせいかテレビはなくテロの話題は一切出さず、ゲストを寛がせるための努力がさらにパワーアップしていた。テロの記憶がだんだん薄れていってしまうほどである。
 旅の後半、サヌールへ移動することになったが、うれしいことにそこには部屋毎にテレビが設置されていた。嬉しくなって1日中、部屋にいる時はテレビをつけていた。テレビの電源を入れると、吹き替えの海外ドラマ、クイズ番組等が流れ、東南アジアらしいコマーシャル(洗剤やらお菓子やら、原色でコントラストも高くしかもインドネシア人とは思えないくらい白い肌の美女が登場する)が何度も繰り返し放送されている。もちろんテロに関するニュースも日本では見られないくらいたっぷりと流れた。
 日本にいるとまるで沢山の情報に囲まれているように感じてしまうが海外のテレビを見て感じるのは日本で見られる情報は実際のところほんの一部の情報でしかないということだ。
 暫くテレビをつけているとそれらの他にどうもイスラムな番組が多いことに気が付いた。インドネシアの90%はムスリムである。ある統計で世界で一番信仰心の薄い国民は日本国民であるということだからテレビに宗教番組が流れていることは考えられないが、世界的には経済力や先進国家うんぬんとは関係なく信仰心の厚い国は沢山の宗教番組が放送されている。インドネシアも例外ではない。
 時期的にもラマダン(イスラム暦第9番目の月で、断食月、非常に重要。帰国後、米国による9・11の報復としたアフガニスタン侵攻が始まった。ムスリムを刺激しないためにラマダン中は休戦すると思われたがタブーを破り侵攻を続けた。)に入る少し前で前夜祭ムードで非常に盛り上がっていた。日本人の宗教感からは不謹慎と思われるだろうが「ラマダン」という曲がヒット中だった。
 バリ島である。ご存知のとおりバリ島は世界一のムスリムを抱えるインドネシアにあってヒンドゥー教徒が90%以上を占めるという特異な地域である。なぜこれだけメディアを通してイスラムが流れているのに誰もイスラムに改宗しないのだろう。テレビからヒンドゥーに関するものはほとんど流れてこない。バリにいるムスリムのほとんどはジャワから来た人でバリ人ではない。(とあるバリ人は言っていた。本当?)
 バリ島を訪れると分かるがバリは目にするもの全てが宗教的行事のようなものだ。それが神々の島といわる所以であろう。そのヒンドゥー教も実際はバリ古来からのアニミズムとインドヒンドゥーが合体したものでバリヒンドゥー(正確にはアガマ・ヒンドゥー・ダルマ)と呼ばれインドヒンドゥーとはかなり異なる。(感想としてはタブーが緩い。カーストによる生活レベルの差が感じられない。ご法度の牛もときどきはよろしいようだ。牛がよろしい人はボッダ派という仏教と接近した宗派の人が主だろう。戒律が緩いというのは宗教として成熟しているのだろうか。)なかなか土着度も高い。人口300万人に対して寺院が3万近く存在する。
 近代オランダが植民地化したことでイスラムの影響を受けなかったというのもあるが、極端に言ってしまえば世界がイスラム化していくなかで、しかもこのインドネシアの中でどうやってバリヒンドゥーを維持しているのだろうか。バリの観光はこのバリヒンドゥー無しでは語れないだろう。見るもの全てがバリヒンドゥーによって彩られているからだ。バリ全体が巨大に観光化していくなかでバリヒンドゥーの地位もさらに強固なものになっているような気がする。
 ニュースをみていたらテロの犠牲になった人々のためにバリ式の追悼の儀式が行われていたが、その絵の中にムスリムの人々もバリヒンドゥー形式で参加していた。感慨深い光景だった。

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2004/01/29

サリ・クラブ爆破テロ

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 バリ島のウブドにあるホテルに向かう途中、現地スタッフに「バリの様子はどうですか?」と聞いた。
 というのもクタのサリ・クラブで爆破テロがあった。最終的に死傷者は500人を超え、被害者の大半はオーストラリア人でその時点で死者は100人を超えていた。日本人も1組のカップルが犠牲になった。9・11、フィリピンなど東南アジアを中心とした爆破テロ、そしてバリの爆破テロ。加速度的に国際情勢は緊迫し海外渡航者の数も急激に落ち込んだ。テロとは無縁と考えられていたリゾート地がテロの標的とされテロも無差別化していく様相を示している。世界的に有数のリゾート地であるバリはテロをアピールするには絶好の場所となってしまい旅行産業は大打撃を受けている。だが本来バリはテロとは無縁の地域である。宗教間紛争の絶えないインドネシアにあって唯一安全で楽園のイメージを保ってきたが今回のテロによってそのイメージは吹き飛んでしまい日本人の減少率は群を抜いていた。
 道中、僕は彼を安心させようと「3ヶ月もすればみんな戻ってくるよ」のようなことを言っていたと思う。バリ島は底力があり、実際にその後バリ島の観光業は回復の兆しをみせている。しかしその後続いたアフガン、イラクに対する攻撃そしてSARSの広がりは現在もバリを含めた観光業に大きな打撃を与え続けている。今回の旅は色々な場所でテロの影響をみることとなった。
 この日はいつも大通りで見かける物売りの子供は見かけない。車は曲がりウブド方面に向かって北上した。ウブドに向かう道は暗く静かでバリに戻ってきた感じがこみ上げて来た。
 いつものウブドの繁華街(といっても小さな)をぬけ車はさらにアユン川にそって北上した。
 このあたりはサヤン地区といいコリン・マックフィーの「熱帯の旅人(原題:House in Bali、河出書房新社)」→amazon.co.jpの舞台となっている。その本は1930年代に1枚のガムランのSPからバリへの旅立ちを決心し、そこで体験した内容を綴ったものだが、バリの表情を活き活きと捉えた内容であり、僕のバリのイメージも大きく膨らんでいた。(当時の西洋人らしくポスト・コロニアルな感じもうけるが・・・また日本でのガムラン第一人者である皆川厚一氏の「ガムラン武者修行(PARCO出版)」→amazon.co.jpを読んでみるといいかもしれない。こちらもガムランに強く魅せられてバリを訪れた著者の体験談だがバリ人との関係はまったく逆である。)
 サヤンテラスなどという名前はそのコリン・マックフィーの住居のあった場所の名残が有名になったものである。今までウブドに来てもジャラン・モンキーフォレストから歩ける範囲しか動いてなかったので(なんというグウタラ)、初めてバリに興味をもって以来、12年以上の月日をもって初めてこの地区に足を踏み入れることとなった。バリはこの10年で大きく変わったと聞くが、実際のところイメージは70年前の著書と変わらないのではないか、と感じた。本当は著書に登場するグヌン・サリ楽団のイ・マデ・ルバ氏を確認したかったのだが前回のバリ旅行の時に既に亡くなっていることを聞き、さすがにその時は70年の月日を感じた。もっと長くバリに通えば小さな変動、風化や喪失といった負のイメージを受け止めてもっと別な感覚を得たかもしれない。ただこの時は70年前と本質的な変化がないように感じた。
 車はアユン川沿いの道を右折し、こんなところにホテルがあるのか、という狭い通りに入った。まもなく僕たちが今夜泊まるホテルに到着した。
 車を降りるとそこは昼の動物は既に寝静まり、虫の声に包まれ、時折夜の鳥の声が木霊し、全ての空気が山や渓谷に吸い込まれていくようだ。ホテル全体が暗くレセプションだけがほんのりと明るく風景全体が幻想的だった。チェックインを済ませ冷たいウェルカムドリンクを飲んだ。
 「バレービューの部屋を用意しました。今日はお客様を含めて三組だけです。」といわれた。バレービューは来る前にリクエストしていたが、テロの影響で宿泊客がたった三組では特にリクエストしなくてもバレービューだっただろう。
 「あさって」といって現地スタッフが帰っていった.その日は空腹に耐えられず、夜遅いにもかかわらずミーゴレンを注文し部屋で食事をとった。スタッフは「こんな遅くにですか?」と吃驚していたようだった。

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2004/01/28

ハワイアン航空ホクレア号

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 タヒチからハワイへ向かうハワイアン航空の機内は過剰ともいえるほどの冷房で、普段は多少の気温の高低ではびくともしない僕でも毛布が必要な状態だった。いかにもローカル線といった感じで国際線にあるような娯楽は一切ない。夜間であるため機内はすっかり消燈され全員眠るのみである。おかげで機内サービスもすっかり停止して客室乗務員は姿も見えない。6時間の退屈な時間だった。僕は夜間飛行の独特の緊張感だろうかあまり眠れず、肩は妻の枕と化していた。
 何か左側から気配を感じたのでそちらを向くと若いポリネシア人の男性がこちらにカメラを向けている。東洋人がこの飛行機にのっているのが珍しいのだろうか。彼は僕が気がつくとさっとカメラを隠しニタニタしていた。暗さになれた眼で周りを見渡すとポリネシア人(タヒチ人かハワイ人)ばかりである。彼らが機内に持ち込んでいる荷物は大きなクーラーボックスやダンボール、田舎の路線バスのようだ。この路線は行商人もしくは里帰りの人たちのための路線となっているのだろう。その時はハワイ人の先祖はたしかタヒチから来たってことを聞いたことがあるなと少し頭をよぎった。
 タヒチしかもボラボラ島へ行った。期間と出発日の都合から直行便ではなくハワイ経由の旅となった。ホノルルでは10時間以上のトランジットを強いられ、ずっと昼だったため丸一日以上起きているはめとなり(おかげでホノルル近辺と限定はされているが初めてのハワイ観光をすることが出来た)日本に帰ってきた時は次は直行便でと本気で考えた。二度目のタヒチ旅行はすぐにも実現すると考えていたが、バリ島という新たな興味の対象と予算の都合で未だ実現していない。
 ところでポリネシアへの興味は本を通して継続することとなった。いくつかのポリネシアに関する本でホクレア号の存在に気が付いた。(池澤夏樹著「ハワイイ紀行 完全版 新潮文庫」→amazon.co.jp)(篠遠 喜彦、荒俣 宏著「楽園考古学 平凡社」→amazon.co.jp)僕はホクレア号の話に夢中になった。ホクレア号はハワイ、タヒチ間を結んだカヌーを再現したものだ。興味はその航海技術である。海図や羅針盤を持たなかったポリネシア人がどうやって何千キロもの海を渡ることが可能だったのか、それをやってみようというのがホクレア号というカヌーによる当時の航海技術の検証である。結果は成功しホクレア号は星や海流をよみながらハワイ、タヒチ間の航海に成功した。これはフラやハワイ語の復興とともにポリネシア人のアイデンティティを盛り上げナイノア・トンプソンという英雄も登場した。ホクレア号はハワイのマリタイム・ミュージアムの裏のドックに繋がれている。そこを訪れるのも良いかもしれない。
 このホクレア号の話に夢中になってから、このハワイ、タヒチ間という垂直に移動するという旅を経験したことは、偶然ではなく必然的だったように感じるようになった。なんの予告もなく突然幾つかの事項が繋がるようなことがあるがこれもそんな感じだった。(本当は旅行に行ったことをきっかけに、無意識にその方面に関する書物を芋づる式に読んでいただけだが)
 その62フィートの双胴式のカヌーはハワイ語の「幸せの星=ホクレア」からとった。具体的には牛飼い座にある1等星アークトゥルスのことである。ポリネシア人がタヒチからハワイに向かう時にハワイの方角を示す星と活用した。同じようなコースをハワイアン航空の機体も飛んでいたわけだから操縦席からはアークトゥルスが見えていたかもしれない。そう考えるとその夜間飛行中に夜空を眺めていればよかったと思う。普通、その限られた休暇期間や利便性から、日本からタヒチに向かうには直行便を利用するだろう。タヒチへ行く需要は年々増え続け、それにあわせてエア・ヌイ・タヒチの直行便も増えている。実際、日程に余裕がなければ僕達も直行便を利用することになるだろう。だから中々乗るチャンスはないと思う。
 結構つらいと考えていたハワイ経由のタヒチ旅行だったが、思い起こせば中々面白いこともあった。アメリカン航空の出発を待つファアア国際空港ではアメリカ人の老夫婦につかまり、終戦直後の日本に住んでいた時のこと(魚臭かったとか、みんなマスクをしていたとか、きよしこの夜のメロディーで盆踊りを踊ったりとか、芸能人のブロマイドとチョコレートを交換したとか)を聞かされているうちに飛行機に乗り遅れそうになり放送で呼び出され、ハワイに着いたら日本への乗り継ぎ機が機体の異常で欠便となり、ホノルル国際空港で余分な時間を過ごすことになって少し落ち込んでいるところに、タヒチで知り合った日本人夫婦が僕達を探して見送りにきてくれたり。
直行便では、これらの経験は出来ないかもしれないしロマンチックな歴史とも無縁であろう。そういうことで、これからは敬意を込めてハワイ、タヒチ間を飛ぶ飛行機をハワイアン航空ホクレア号とでも呼ぼうか。

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